生きているわたしは、「死」に無力だからこそ

 ちょっと前に書いた『あこがれ』という小説は、「会いたい人には会っておかなければならない、なぜなら人は本当に、急にいなくなってしまうから」という素朴にして絶対的な「怖さ」によって書かされたようなところがある。

 でも、書いたからってその怖さはちっとも減らない。どれだけ別れの準備をしたって、どれだけ語り尽くしてお別れをしたって、それはきっと「もう、本当に会えない」という事実には、追いつかない。なんだか、そういうつくりになっているみたいだ。

 でも、だからこそ、会いたい人がいて、もし会えるんだったら、できるだけ会っておいたほうがいいよね。生の出来事は、死にたいしてとても無力だと思い知らされもするけれど、でも、生きているわたしたちには、それしかできないのだし、おそらくは、それがすべてなのだから。

 お酒がとっても好きな彼女だった。さっきわたしは、死んだ人にはもう、本当に会えない、と書いたけれど、でもそれはわたしの経験上そうだろうと思っているだけのことで、当然のことながら本当のところはわからない。もう会えないだろうという実感と、またきっと会えると信じることは、別のことだ。今日もフレシネを飲みながら、そんなことを考えた。

彼女を見送った日はとても寒いけどよく晴れた日でした。何かのきれはしのような雲。空が青い。
彼女を見送った日はとても寒いけどよく晴れた日でした。何かのきれはしのような雲。空が青い。

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