みなさんも、これまで少なくない数の別れをしてこられたと思う。そして、自分の年齢のことを思うとこれからどんどん別れはふえていく。

「死っていったい、なんだろう」っていうようなことを考えても考えなくても、死はすべての人を捉えていく。それはほとんど暴力的なかたちで現れることもあれば、音もなくやってきてすべてを奪い去ってしまうこともあるけれど、でも、どれだけ準備していても、心を構えていても、やっぱり死はいつだって突然のものだ。ある一瞬に、今までは「ここ」だった場所に、「あちら」と「こちら」ができてしまう。わたしたちは、これまでと違うあり方と関係になってしまう。何度経験しても、これは不思議なことだ。

容器の中に入れられた「水」

 思い出も変化する。

 生きている人、また会おうと思えば会える人との思い出と、死んでしまった人との思い出は、やはり何かが違うような気がする。生きている人との思い出が、蛇口をひねってだそうと思えばいつだって出せる水道の水だとすると、死んでしまった人との思い出は、まるで容器に移し替えられた水みたいだ。容器の中の水は増えもしないし、動かない。眺めることしかできない。すぐにだったら飲めるけれど、しばらくするとそれはもう飲むことのできない水になる。おなじ水なのに、見た目はおなじなのに、何かがすっかり変質してしまっているのだ。

 それはきっと「今」というものに大きく関与しているのだろう。過去も未来も、すべてが「今」に立脚している。死ぬというのは、そのひとつの「今」が消滅してしまうことだ。だから、そこに拠っていたものも、ゆるやかに消えていってしまう。

 ただ、それらが存在しつづけるための手立てはひとつだけあって、それは生きている人、残された人の「今」に寄りかかることだ。生きている人の「今」の中で──それは容器に入れられた水ではあるけれど、何度でも何度でも、見つめ、見つめられることだ。思い出のなかに生きている、わたしの中で生きている、という感覚は、こういうことでもあるんだと思う。