なんでそんな当然のことに今まで気がつかなかったのかというと、ひとえに小説家というのが特殊な仕事で、あんまり人に会わないせいなのである。つまり、年齢とか容貌にたいする「至近距離での比較」みたいなものがそもそも希薄なせいで、幸か不幸か、現実を思い知らされるという機会が極端に少なかった、というのがあるんです。小説に加齢ってないし、意識する機会がほとんどないし。30代という女性の変化の著しい十年をこの環境で過ごしてしまったおかげで、心がどこか、浦島太郎なあんばいになってしまっているのかもしれない

「女としての終わり」って、切実さを理解してなかった!

 もちろん見た目を誹謗中傷されるのなんて日常茶飯事なんだけど、そういう評価には「はっ、このなかでいちばん老けているのはわたしだ」みたいな、深い納得とあきらめとともにやってくる否応ない圧迫感はないわけで、「そうか、40歳40歳ってゆってるけど、わたし、半分くらいしか意味がわかってなかったんやな」と、うなだれてしまったのだった。

 わたしはコスメや美容が好きなので、ネットで様々な女の人たちのSNSをフォローして色んな情報をありがたく共有させていただいているけれど、図々しくも、若い人たちと自分というものを比べたことがなかったのかもしれない。つまり、彼女たちと自分はおなじ世界の存在者ではないというか、そんなような前提があるから比較しないし、ゆえに、傷つくということもなかったのだ。

 だから、同年代の──既婚未婚を問わず──女ともだちから「老けすぎてメイクする気にもなれない」とか「女としての終わりを感じる」とか「余生感ある」というような話を聞いても、それがどれくらい切実な問題であるのかが、ほとんど理解できてないところがあったのだ。

 そう、われわれは確かに老けた。体力もない。でもそれって、二十代でも三十代でも、思いだしてみれば、いつだって言ってきたことじゃん。二十歳前後の頃だって、もう若くはない女の人たちから「今がいちばん楽しくて、いちばんきれいなときよ」と言われることもあったけれど、若い自分がそのことを実感することなんてもちろんなかったし、生きるということは、つねに失われるものばっかりに目を奪われることの別名だ。だから、40歳っていったって、もちろん何かの節目ではあるかもしれないけれど、いつもと同じで、大したことないんじゃないか──どこかでそんなふうに思っていたのだ。

 で、ある日。離婚して独り身が淋しいという女友だち(31歳)が、最近ハマっているアプリがあるという。