慣れない土地で、受けられる支援を模索する日々

 佐々さん一家は、尚くんが誕生して間もなく、夫の仕事の都合で東京から秋田へ移住することが決まっていた。

佐々 秋田で住む場所を探すために、尚くんの預け先をようやく確保して1週間秋田へ行きました。新居の契約、尚くんの療育センターの申し込み、病院探し、障害児を積極的に受け入れてくれると聞いていた保育園も見学しました。保育園には「障害があっても預かりますよ」と言ってもらえたのも束の間、尚くんが将来的に経管栄養になる可能性があることを告げると「経管の子はちょっと…」と断られてしまいました。医療的ケアがある子どもの預け先はないのだと思いました。

 全く土地勘がない秋田での生活がスタート。このころから少しずつ、尚くんにけいれん発作が現れ始めていた。会場のスクリーンには、けいれん発作を起こす尚くんの映像が映し出される。見ているこちらも胸が詰まる尚くんの様子。けいれんが治まると、今度はけいれんをしたことが不快で、尚くんはさらに激しく泣き続ける。そんな状態が1日中続く毎日。尚くんのけいれん回数と持続時間を記録することが佐々さんの日課だった。けいれんは1日50回になることもあった。

佐々 慢性的な睡眠不足で疲労が蓄積していたので、「少し休みたい、離れたい」と、乳児院に預けたものの「発作が頻発するので今後は難しい」と1回預けて断られてしまいました。何か受けられそうな支援はないか、あちこちに問い合わせをしましたがありませんでした。一番の原因は、尚くんがそのときに手帳を取得できていなかったこと。また、その時点では医療行為を必要としていなかったので、宙ぶらりんの尚くんの状態では、なかなか預け先が見つからず、支援してもらえないのです。

 助けてくれたのは、フェイスブックで交流を続けていた、障害児を育てる佐々さんの東京の友人。尚くんの世話に追われて1件1件問い合わせをする余裕がないなか、友人が障害児に対応する訪問看護ステーションを見つけてくれたという。

佐々 それでも慢性的な疲労はたまりますし、私たち夫婦が病気で倒れたときのことを考えると、いざというときの預け先を確保する必要があります。療育センターと交渉を続けた結果、障害者手帳がなくても福祉受給症を発行してもらえ、生後6カ月でようやく療育センターに預けることができるようになりました。介護の隙間の時間を見つけてあちこちに要望し続けて、ここまで到達するまでがとても大変でした。

 窓口に相談をすると、まず家族構成を聞かれるんです。そして必ず「祖父母の協力は?」と聞かれる。行政で対処するよりも前に、別世帯の祖父母に負担をかける方を優先するという発想がおかしいのではないかと思っていました。「子どもは親だけが育てるもの」という暗黙のルールがあり、大きな壁に押し潰されそうになっていました。

 年明けになると口からミルクを飲める量が次第に減り、号泣とけいれん発作が増えていった尚くん。夫婦共に眠れない日々が続く。何とか口からの機能を維持したい佐々さんは、口腔リハビリができる病院を模索する。

 しかしながら、やがて口からの栄養摂取が難しくなり、鼻から胃に経管栄養チューブを入れる「医療的ケア」を必要とするようになった。このころの佐々さんは精神的にボロボロで、尚くんを連れてベランダを乗り越えかけたこともあったという。朝を迎えるのも夜を迎えるのも辛く、途方もなく長い1日が続いたと当時を振り返る。