「卒業するまで帰ってくるな」と1000ドルを持たされて留学

小池都知事(以下、小池) 子どものころ、母は自分で私の洋服を縫ってくれました。今ちょうどNHKのドラマのモデルになっている神戸三宮のファミリアというお店に行って、かわいい服があるとそれをヒントに私に似合う服を手作りしてくれたんです。「はやっているものを着ても似合うとは限らない、だから作ってあげる」と。そういう母に、「自分の好きなことをしなさい」と言われて育ちました。母も戦時中は厳しい生活を強いられた女子学生で、やりたいことができなかった。でも今は違うのだからと、すごく励ましてくれました。

 私は結構、外に目が向いていたので、何か海外とつながりのある仕事ができたらいいなと思いました。それで英語を極めようと思っていた高校生のとき、アポロ11号の月面着陸の様子を見たんです。

 アポロ11号とNASAとの交信は、ただでさえガーガーと雑音が入って聞き取りづらいのに、同時通訳の方が専門用語も交えながら、それはもうよどみなく通訳していた。英語はいろんな方がやっているから、ここまでのレベルに行くのは私には無理!と思いました。じゃあ他の言葉をと思ったときに、これから必要とされるだろうけれど、まだあまり人がやっていないものということで、アラビア語を選びました。

―― それでカイロ大学へ留学されるわけですが、家族からの反対はありませんでしたか?

小池 あっさり「行ってらっしゃい」でした。「卒業するまで帰ってくるな」と。最初に1000ドルを持たされて行きましたが、下宿代を払っているうちにだんだんなくなってしまい、観光ガイドのアルバイトを始めました。何千人という日本からの観光客を、ピラミッドやルクソールなどにご案内するんです。そこで私は、「この方達は恐らく一生に一度しか来られないのだろうから、感動を持って帰っていただきたいな」といつも思っていました。

 町の中心からピラミッドまで20キロくらいあるのですが、途中から田園風景になって、ヤシの木が並ぶ道のある場所にさしかかると、バーンとピラミッドが見えてきます。そのタイミングをよく計って「さあ皆さん、左手をごらんください!」と案内する。そうやってからエジプトの古代遺跡について説明すると、皆さん感動していました。

―― そのころから言葉を発するタイミングというものを考えていらっしゃったんですね。他に何か留学中の思い出はありますか。

小池 1年ごとに大学の進級が決まったら、自分にご褒美を用意しました。それはモノではなくて、「あのときにああしたんだ」という、何か記憶に残ることをやろうと。

 エジプトのカイロには、カイロタワーなどいろんな高い建物があるんですが、一つの節目が来たときにそういうところに上って、「わーっ」と叫ぶんです。周りのカップルなんかが「この人ヘン」っていうふうに見るんですけど、それが私の儀式みたいなものでした。

 モノは消えてしまうかもしれないけれど、記憶は消えないんですよね。日本に帰国後の20代半ばくらいのころ、ある方が「人生の豊かさというのは忘れ得ぬときをいくつ持っているかだ」とおっしゃるのを聞きました。大切な記憶を積み重ねていくことは、今も大事にしていきたいと思っています。