―― 『ハリー・ポッター』全作品と、今回の『ファンタスティック・ビースト』を製作したヘイマンさんだからこそ知っている、シリーズを通しての、みんなが知らないトリビアを何か教えていただけますか?

ヘイマン 私が教えちゃったら、みんなに知られちゃうからなぁ(笑)。そうですね、さっき話しましたが、ジョーが次回作の脚本を書いていることがまさにトリビアですよね。たくさんの小説を書いてきたジョーなら、簡単に書けると思われてしまうかもしれませんが、実際には本当に大変なことなんです。

 『ハリー・ポッター』の映画シリーズのころにも、非常にたくさんの苦労がありました。『ハリー・ポッター』の本は英国で毎年のように出版されていました。6カ月くらいの間隔で出ているときもありました。自分の大切な作品を誰かの手に委ね、映画化されるというのは結構怖いことだと思います。『ハリー・ポッター』の1作目の脚本をスティーブが書いているとき、ジョーは4作目の小説を書いていたのですが、締め切り目前で彼女は行き詰まってしまったそうなんです。そのころ、ジョーもスティーブも大きなプレッシャーにさらされながら、ジョーはどうにか締め切りに間に合わせ、スティーブも1作目の映画の脚本を書き終えました。

 本でも映画でも発表すれば常にランキング上位に入るという状況は、作り手にしてみれば名誉ではあっても、やはり相当の重責がかかるわけで二人とも本当に苦労したんですね。これが僕の知っている逸話の一つかな。

作品を通して伝えたいのは「分裂された世界で必要とされる寛容さ」

―― 『ハリー・ポッター』では、少年ハリーの成長が描かれましたが、今回の主人公はニュートという名の大人です。こういった変化がある新シリーズ1作目の『ファンタスティック・ビースト』を通して、ヘイマンさんが最も伝えたいことは何でしょうか?

ヘイマン 『ハリー・ポッター』シリーズはすべてエンターテインメント作品ですが、ジョーが書いていることは、彼女自身が知っていることであり、実際に見えている世界なんですね。ファンタジーの世界であっても、我々の世界に鏡を当てて、そこに見えることを書いているんです。

 少年・ハリーもそうですが、大人のニュートも“アウトサイダー”。その点が物語全体の大事な要素になっています。『ファンタスティック・ビースト』では、世界が分裂してしまっています。その分裂した世界で、レッテルを貼られている人々がいる。人々が自分達と違った人を懐疑的な目で見ているという状況ですね。「本来の自分でいること」を何らかの圧力によって抑制されてしまうせいで、危険なことが起きていくわけです。

 また、本作では友情の力、人と人との絆の持つ力も描いています。そして、魔法動物を一生懸命に保護して、保全しようとしているニュートの側面も、二次的なメッセージとして伝えています。

デイビッド・ヘイマンさんとニュート役のエディ・レッドメインさん
デイビッド・ヘイマンさんとニュート役のエディ・レッドメインさん

ヘイマン これらのテーマは、『ファンタスティック・ビースト』の舞台である1926年でも、現在の2016年でも共感できるものだと思います。現在、世界は分裂していますよね。人々は寛容さを忘れ、自分と違う人にレッテルを貼って拒否するということが多い。ポピュリズムがこれまで以上に台頭し、偏見の目を持つ人も増えている気がします。これでは、人々はどんどん本来の自分を出せなくなってしまいます。

 『ファンタスティック・ビースト』の内容は、我々の世界をまさに反映したものです。ニュートやジェイコブのような人は、はみ出し者ですが、こういう人は我々の世界にもよくいるはずです。ニュートは人とのコミュニケーションが苦手で、動物と一緒にいたほうが楽なんです。彼のように、非常に忠実な心を持っているけれども、社交性に欠ける人。私達の周りにもいると思いませんか? クイニーのように、心は広いけれど「自分は孤独だ」と感じている人も、ティナのように一生懸命に頑張って仕事をしていてもうまくいかない人も。社会にはこの映画に出てくる人物のような人がたくさんいます。でも、そんな人達が「本当の自分」をさらけ出してしまったら拒否されてしまう……。

 魔法の世界であっても、ジョーが書いているのは我々の世界を反映したものなんです。もちろんその中にはユーモアもあるし、ドラマもロマンスも冒険もあります。我々の世界と共通する真実があるからこそ、ジョーの書く作品は支持されているのでしょう。