子育て中のママは家族のケアや仕事に忙しくて自身の健康は後回しになりがち。「ママが気を付けたい病気」について体験者や専門家に取材し、早期発見や治療などの情報を紹介します。1回目のテーマは、乳がんです。アラフォー世代におなじみのタレント、生稲晃子さん(48)は2011年に乳がんが見つかり、公表せずに闘病。子育てや仕事を続けてきました。今回は、全摘の手術を受け、乳房を再建。がんを公表するまでのお話です。

<前編はこちら> 生稲晃子 乳がんで5回手術、公表せず仕事続ける

娘が傷を見て表情を変えなかったので、自分でも見る勇気に

 2013年には再々発が分かり、3度目の手術を受けました。さらに全摘が必要と告げられ、精神的に一番、厳しかったです。仕事と学校が休みになる年末年始に入院し、全摘と再建の同時手術。乳腺外科の全摘が終わったら形成外科医にバトンタッチし、胸に組織拡張器を入れました。再建手術に保険が適用になったので、費用の負担は少なくて済みました。

1968年生まれ。80年代、テレビ番組から生まれた「おニャン子クラブ」の一員になり、大人気に。「うしろ髪ひかれ隊」としてCDデビューも。おニャン子卒業後は、女優やレポーターとして活躍。出演番組に「キッズ・ウォー」「ちい散歩」など。子育て中の働くママでもある。乳がんを公表せず、5回の手術を受けた。その体験をつづった「右胸にありがとう そして さようなら」(光文社)を出版
1968年生まれ。80年代、テレビ番組から生まれた「おニャン子クラブ」の一員になり、大人気に。「うしろ髪ひかれ隊」としてCDデビューも。おニャン子卒業後は、女優やレポーターとして活躍。出演番組に「キッズ・ウォー」「ちい散歩」など。子育て中の働くママでもある。乳がんを公表せず、5回の手術を受けた。その体験をつづった「右胸にありがとう そして さようなら」(光文社)を出版

―― しっかり者の娘さんが、本音を見せました。

生稲さん 手術の前、右胸ともお別れなので、娘と近所の銭湯へ。「右胸がなくなったら、こんなふうに銭湯に来るなんてもうないのかな」。それでも娘のために頑張ろうと思いました。全摘の手術後はさすがに痛くて、体がきつかったです。乳頭、乳輪と乳房の膨らみがなくなってしまいましたが、娘が先に傷を見て表情を変えなかったので、自分で見る勇気になりました。娘のおかげで、思ったよりも衝撃を受けずに済みました。

 初めの入院のときは3泊で、娘は毎日、お見舞いに来てくれました。その後、2回の手術は日帰りでしたが、全摘手術の入院は10日。娘なりにストレスを感じてしまったようです。病室に来ても、テレビを見るしかない状況。冬休みなのに遊びに行けないのは、子どもにはかわいそうでした。1月2日、泣いてパパを困らせていると連絡があり、「病院に来なくていいから、どこか連れていってあげて」と言いました。私は1日、病室にいて「今日は来てくれないんだ」と独りぼっちで寂しかったけれど、娘に対して「そうだよね。ごめんね」という気持ちでした。

―― 公表しなかったので、闘病の仲間がいなくてつらかったそうですね。

生稲さん 病院に行くと、40代の患者さんが多くて。がんにかかる方が多い世代ですよね。同世代だと私のことを知っている人も多いだろうと、マスクやメガネをしていました。振り返れば、気が付いても、声をかけないでいてくれたのかもしれません。全摘の手術を受ける前日、他の患者さんと一緒に説明を受ける場面がありました。あのときは一番、苦しかったです。本当は「怖いね」と話して、不安を共有したかったけれど、マスクとメガネ姿で「話しかけないでオーラ」を出していました。相部屋の患者さん同士、話しているのを見ると、「ああ、私も話したい」と思いながら黙っていました。その場を去るときに「お先に失礼します」と言っただけでしたが、皆さんが返してくれた「いってらっしゃい」がうれしかったです。