子育て中のママは家族のケアや仕事に忙しくて自身の健康は後回しになりがち。ママが気を付けたい病気について体験者や専門家に取材し、早期発見・治療の方法などの情報を紹介します。1回目のテーマは、乳がんです。

 アラフォー世代におなじみのタレント、生稲晃子さん(48)は2011年、乳がんが見つかりました。当時、長女は5歳。子育てや仕事をしながら、公表せずに闘病してきました。5回の手術を経て2015年、体験を発信するようになり、共感が集まっています。子育て世代のがん、仕事、家族との関わりを聞きました。

当時5歳の娘に「おっぱいの中に悪いものがあった」と伝えた

 2010年、生稲さんは自治体の無料検診を受けそびれました。知人の医師に勧められ年明けに人間ドックへ。胃と大腸の内視鏡、子宮、乳がんのマンモグラフィとエコーなど全身を検査。再検査になって受けた後、東日本大震災が起きました。震災で心身に打撃を受けながらも腫瘍に針を刺す細胞診を受けました。3月末、主治医からがんの告知がありました。

―― がんと聞いたとき、どんなことを考えたのでしょうか。

生稲晃子さん(以下、敬称略) 情けない話なのですが、正直に言うと自分のことしか考えられませんでした。がんというと、「死んでしまうのでは」と最悪の状態に近いイメージしか思い浮かばず、ショックで。その後に、当時5歳だった娘に、言わないほうがいいのか考えて悩みました。往復1時間かかる保育園の送り迎えは。仕事はどうしよう。母はすでに他界しており、手助けを頼める人はいません。仕事や子育てを自分でやっていくしかないと思いました。

1968年生まれ。80年代、テレビ番組から生まれた「おニャン子クラブ」の一員になり、大人気に。「うしろ髪ひかれ隊」としてCDデビューも。おニャン子卒業後は、女優やレポーターとして活躍。出演番組に「キッズ・ウォー」「ちい散歩」など。子育て中の働くママでもある。乳がんを公表せず、5回の手術を受けた。その体験をつづった「右胸にありがとう そして さようなら」(光文社)を出版
1968年生まれ。80年代、テレビ番組から生まれた「おニャン子クラブ」の一員になり、大人気に。「うしろ髪ひかれ隊」としてCDデビューも。おニャン子卒業後は、女優やレポーターとして活躍。出演番組に「キッズ・ウォー」「ちい散歩」など。子育て中の働くママでもある。乳がんを公表せず、5回の手術を受けた。その体験をつづった「右胸にありがとう そして さようなら」(光文社)を出版

―― 家族にはどのように告げましたか。

生稲 手術前だったでしょうか。親の直感で「この子には言ったほうがいい、理解してくれるかな」と思い、娘に「おっぱいの中に悪いものがあって、取らないと死んでしまうかもしれない」と伝えました。娘は「ママが入院するのはいや。死んじゃうのもいや」と言って泣きました。全部ではないけれど理解してくれたと思っていました。言わないお母さんもいると思いますし、何がいいかは分かりませんが、再発のときも娘に言いました。

 最初に「がんかもしれない」ということは、夫に言われたんです。ドックを勧めてくれたドクターに聞いたみたい。私が検査した病院に、義父ががんで入院していたので、たぶん同じだよと。少し後に、「2人もがんになって、おれのせいかな」と言うので、申し訳ないと思いました。夫は表情や言葉に感情を出さないタイプ。本当はショックだったと思います。がんを公表した後に、夫がテレビ番組の企画で手紙を書き、「自分も一緒にうろたえたら病気には勝てない。平常心、平常心と思ってきた」と打ち明けてくれました。

―― 仕事のことを考えて、公表しなかったのですね。

生稲 当時、テレビ番組「ちい散歩」内の通信販売コーナーにレギュラー出演していました。これは健康番組なので、「がんを公表すると内容にそぐわない」と思ったのです。せっかくレギュラーにしてもらったのに、自分からは降りたくない。病状が進んで、どうしたって明かさないといけなくなる日が来るかもしれないけれど、頑張れるなら頑張ろうと公表しませんでした。

 見つかった腫瘍は8ミリぐらいと小さく、初期のステージⅠと診断されていました。そのときは、「このまま元気になるなら、言わなくていいことかもしれない」という思いもありました。がんのことは、所属事務所の社長とマネジャー、姉だけに話しました。