変わってるね、と言われることを肯定も否定もせず、何となく一匹狼で生きてきた

 保育園も、その日の仕事によって時間を柔軟にして預けているので、特に決まって会う人もいない。息子もまだしゃべれないので、保育園で誰と何してたか話したりもしないし、息子に話しかけてくれる女の子達の名前は覚えておこう、ぐらいはしているが、他のパパ、ママ達も忙しい人ばかりでバタバタと送り迎えしてはすぐ帰り、特に話すこともない。

 というか、めんど臭いのが嫌過ぎて、ママ友的な輪がありそうなイベントを無意識的にすべて排除してしまっているのかもしれない。

 「無痛分娩にするお金はもったいない」という感覚になったくせに、分娩後の病室は絶対に個室じゃないと嫌で迷わず入院一週間分の個室料金を支払った。母乳は基本指導室であげるという病院の原則があったが、なかなか出ない…と周りの新米ママ達が悩んでいる中、私だけなぜかおっぱいがドボドボ出て、息子がゴクゴク飲むのがどうにも気まずくて、なるべくこっそり個室であげるようにしていた。

 思えば私には昔からそういう傾向がある。高校生のころ、「便所飯」という単語がまだない時代、昼休みはトイレでご飯を食べて、休み時間はトイレで携帯いじって過ごしていた。ルーレットのように回ってくるハブの標的にされるのもするのもただただ面倒で、とても居心地のいい安住の地として一番奥のトイレに座って過ごしていた。

 インターネットが携帯電話でも気軽に使えるようになっていく過程と同時に育った世代で、会ったことのない友達や彼氏を何人もつくっていた一方、共通の趣味や言語を持った結びつきには、学校で「あいつは変なヤツだから仕方ないと思われるほうが、いちいち地方都市で愛される“いかに一般的で模倣的であるか”を気にしなくてすむから楽だ」と考え、自己保身のために打ち立てた適当なキャラクターに適当な言葉をしゃべらせることよりも、異色の存在でいるほうにいくらかの本質を感じた。だからこそ、心が安まることもあれば、時には心がえぐられるような思いをすることもあるけれど。

 友達とゆっくり会う時間が取れない今は、自分のファンにインターネットで長文のメールを私個人に送りつけることを推奨したり、なるべく返信したりしている。

子ども心に均一的なママ達の優位争いは気持ちいいものではない

 子どもを持って初めて思い出す幼少期のことがたくさんある。

 弟の哺乳瓶のミルクが羨ましくて吸ってみたらクソマズかったこと。

 幼稚園時代は公務員官舎、いわゆる団地に住んでいたので、そこでのシビアなママ達の優位争いを子どもながらに見て、あまり気のいいものではなかったこと。

 棟ごとに父親の仕事のランクというか…家の広さが変わっていて、あの棟の子の家には行くなとか遊ぶなとか親同士が言い合い、子どもなので「そういうものなのか」と素直に捉えつつも、「なんだかなぁ~」という気持ちがあった。

子どもを持ち、自分が子どものころの、ある瞬間的な気持ちや母親を取り巻く人間関係についても思い出すようになった
子どもを持ち、自分が子どものころの、ある瞬間的な気持ちや母親を取り巻く人間関係についても思い出すようになった

 私の母は服を作るのが得意で、いつも私に新しく作ったお洋服を着せてくれていて、お遊戯会には妖精さん役8人分の衣装やティアラを頼まれて作っていたこともよく覚えている。

 幼稚園の演奏会でピアノのソロ役をもらって喜んだら、当時ヤマハで私より良いクラスにいた子のママ達がすごく怒っていたこと。細かいことまで、意外に覚えているものだ。

 小学校2年のとき、陰口を言われるという他人からの悪意を初めて経験した。そのとき私は犯人を突き詰め、石山さんの読書カードに「死ね」とサインペンで書く仕返しをしたら、担任にひどく怒られた。

 私の家は101号室。石山さんは102号室に越してきた転校生だった。小学校低学年のころの私は、勉強もできて、習字も絵も習っていたのでいつも表彰されていた。人を驚かせるのが好きで、よく嘘をつく、勝気でムカつくやつだったので、やはり関係ない自分の問題だったかもしれない。でも、石山さんに関しては今でも思い出すことがある。

 当時団地のママ達の間ではカラオケがブームで、私の母もカラオケ会へ行くためにピンク・レディーやキャンディーズを振り付きで歌えるよう練習し、楽しそうだった。

 石山さんのお母さんは、ママ達のカラオケ会に行くお金を旦那にもらえないから参加できないと言っていたらしく、それではかわいそうだと他のメンバーで石山ママの分を割り勘で出し合っていたという。今思えばあの陰口も、そういった親同士の事情が発端で言われたことかもしれない。