常位胎盤早期剥離の結果、脳に重度の障がいを持って生まれてきた長男の尚武くんを抱え、佐々百合子さんは児童相談所に電話して「子どもを連れて今すぐに死んでしまいたい衝動に駆られてどうしたらいいか分からない……」と泣きながら訴えたこともありました。それが、尚武くんが1歳を過ぎるころには「尚くんの死を願う気持ちがいつの間にかすっかり消えていることに気づいた」。

 佐々さんが正面から自分の気持ちと向き合い、その変化をつづっているのが、著書『あなたは、わが子の死を願ったことがありますか? 2年3カ月を駆け抜けた重い障がいをもつ子との日々』(現代書館)です。前回の記事「脳に重い障がいを持つわが子と歩んだ2年3カ月」では尚くんとの日々を中心に話を伺いました。今回は、社会として、個人として私達に何ができるのかを書籍からの一節と共に考えていきます。

「大変だから助けて」と親に言わせない社会

 “療育センターに行くたびに「大変ですね、大丈夫ですか」と声をかけてくれるのだが、ギリギリのところで何とか踏ん張っていた私が必要としていたのは、言葉がけではなく具体的な支援という解決策だけだった。”(『あなたは、わが子の死を願ったことがありますか?』38ページより)

日経DUAL編集部 尚くんが生まれてからの日々を支えてくれたのは、社会的な支援制度というよりは、友人や夫、子ども達だったとのことでした。

佐々百合子さん(以下、敬称略) そうですね。小さいころの障がい児の支援は制度としてほとんど存在しないんです。赤ちゃんというのは障がいの有無にかかわらず、言ってみれば「全介助」です。だから私もまず、「普通に子育てしてください」「普通の子育てと一緒ですから」と言われてしまいました

 障がい者手帳が出て初めて「障がい者」になるのですが、その手帳は生まれたときから手足がないなどの欠損と違って、脳性まひでは3歳くらいになるまで通常は出してもらえない。私はものすごく粘って、もうほとんどケンカ状態で1歳のときに出してもらいました。尚くんの場合は、秋田の県立医療療育センターで、6カ月くらいのときから、レスパイトとかショートステイもできるようになりました。それも、何度も諦めずに頼んだからです。

 基本的には、状態が固定して、これ以上良くならないと分かってからしか手帳は出してもらえません。でも、そんなのを待っていられないくらい大変な今を救ってほしい……と何度訴えたか分かりません。

 できることなら、障がい児の親が「こういうところが大変なんですけど、何か方法ないでしょうか」と相談できる雰囲気がほしいと思いますね。「普通の赤ちゃんと一緒ですから」と返してしまって、障がい児の親に「私が頑張らないといけない」と思わせるのではなく。

 「自分が産んだから、人に迷惑をかけてはいけない」って皆さん言います。これ、実は子育て世代全般に共通している思いのようにも感じます。子育てが大変だと思ったとしても、例えば障がいのある子を育てている他のお母さんと比べて、「ああ自分が大変だなんて言っちゃいけない、私はもっと頑張らないといけないんだ」と思ってしまう。でも、人によって耐えられる限度は違うし、子どもってそれぞれみんな違うんだから、大変さを他の子と比べることには全く意味がない。大変だと思ったときに助けを求めて、助けてもらえる、ということが当たり前にあっていいと思うんです

 そうすれば、いつか自分がそれほど大変でなくなったときに、別の大変な誰かを助けてあげられる。大変なときに我慢して頑張った人は、意外に人が大変なのを見ても「私だって我慢したんだから」という目で見るだけで、手を差し伸べなくなるかもしれないじゃないですか。

1歳11カ月のとき。妹ができて急にお兄さんらしくなる尚武くん
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