本当のことを知りたい。何度も聞き取り調査を行った

2010年10月29日に窒息事故に遭い、その後意識不明の重体で入院していた寛也くんは、ご家族の祈り叶わず、40日後に息を引き取りました。葬儀の後、えみさんがまず行ったことは「家の郵便受けから名前を剥がす」ことだったといいます。

栗並 自分がその先どうなるのか全く分からなくてすごく怖かったのです。ワイドショーの取材や近所の誰か知らない人が、家に押しかけてくるのではないかなどと考えて、何をしたらいいか分からなくなりました。

事故当時の状況について事実を知りたいと思った栗並夫妻は、自分から園に説明の場を設けてほしいと申し込み、葬儀の一週間後に園に向かいました。その場には、市の担当者が二人、園長と副園長、主任、そして当時寛也くんを見ていた保育士が出席し、事故発生時の状況を説明しました。

栗並 関係者から説明を聞いても、なぜ息子が亡くなったのかが分かりませんでした。園側から「保育士が見守っている横で突然喉に詰まらせた」と説明されたのですが、隣にいてなぜ事故を防げなかったのかよく分からなかったのです。園側に何かを隠そうとしいう意図を感じたわけでもなかったのですが、とにかくもっと多くを聞いて真実を知りたいと思いました。そうしなければ息子の死が報われないと思ったのです。

「事故原因がどこにあったのかを知りたい」――。その思いから栗並夫妻は、園への聞き取りを行いました。園長に電話をし、保育時間外の平日夜間の2~3時間をもらい、保育士一人ひとりに何か覚えていることはないか尋ね、その内容を夜な夜な議事録にまとめる日々でした。

栗並 園が組織として積極的に情報を整理してくれたわけではありませんでしたが、個々の保育士さん達は徐々に自分が見たことや知っていることを話してくれるようになりました。そうしてやっと、担当の保育士が事故発生時に息子のそばから離れていたことが分かりました。

社会的に事故が検証されてこそ、息子の死は報われる

栗並夫妻は、園への聞き取りを行った後、全く動こうとしなかった県に対し、事故原因究明のための検証を求める行動を取ります。翌2012年2月に3万人分の署名を集めて県知事に提出したのです。これを受けて事故から1年半後の2012年5月に県と市合同の第三者委員会がようやく設置されました。第三者委員会で検証が行われた結果、ついに2013年2月に最終報告書が出され、保育園の運営にあった問題点や、その背景にある行政の問題が明らかにされました。えみさんはこのとき、長男を亡くして以来初めて「ひと段落ついたと感じた」と言います。

栗並 子どもが一人亡くなるということは、とても大きなことです。でも、その原因や事実が保育園の中でうやむやにされてしまう場合もある。こうして社会的に検証され、原因が周知されることが再発防止につながるのです。園側の原因だけでなく、行政の問題もある。事故は様々な要因が積み重なって起きたことであり、「子どもには何の落ち度もなかった」と社会的に言ってもらうことで、子どもの名誉回復にもつながったと思います。検証は遺族のためだけにあるのではありません。再発防止という社会的意義のためでもあります。

活動の甲斐あって、2014年9月に国は「重大事故の再発防止策に関する検討会」を設置しました。検討会でえみさんは委員として事故検証の仕組み作りを提案し続け、議論の結果、自治体による検証が制度化されました。そして、事故発生時のガイドラインでは、自治体ならびに施設が、事故直後から何をすべきかが分かりやすく時系列にまとめられています(「教育・保育施設等における事故防止及び事故発生時の対応のためのガイドライン」)。これによると、施設側はまず子どもの命を救う応急措置をした後、保護者に連絡を取り、さらに地方自治体への連絡をする、とあります。

栗並 事実確認はできるだけ早く行ったほうがいいのです。そのため、連絡を受けた自治体は速やかに保育園に向かい、事実確認をするべきと私は考えます。私自身の経験上、遺族が調査を行うのは、肉体的にも精神的にも負担が大きくとても辛いことです。だからこそ行政ができるだけ早く事実確認を行い、正確な事実を基に、再発防止へつなげていくことが大切なのです。同時に、可能であれば遺族ご自身も園の関係者にコンタクトを取り、早期に聞き取りなどを行ったほうがよいと思います。

できる限り詳細な情報を基に検証が行われるように、栗並夫妻は聞き取りの議事録も、寛也くんの生育記録も、病院に情報開示請求をして得られた入院中の治療状況も、すべて第三者委員会に提出しました。「行政や園を敵に回すのではなく、あくまで冷静に」。栗並夫妻のそんな対応があったからこそ、国も動き、今回のガイドライン誕生に至ったのです。