「絵の中に入ったら、戦争のない世界に行けるんじゃないか」
戦争は好きでも嫌いでもなく、有無を言わせないものでしたが、「戦争のない時代」への憧れは強くありました。わが家の茶の間には、父が描いたポプラ並木の水彩画がありました。絵の中へ入ったら、戦争のない世界へ行けるんじゃないかと、私は想像しました。
空襲が激しくなり、東京の国民学校の3年生から6年生に疎開令が出ました。6年生の姉と3年生の私は、札幌の母方の祖父母の家に疎開することになりました。
疎開が決まると、母は特に厳しくなりました。言葉遣い、お行儀、整理整頓、お手伝いをしなさい、姉妹げんかはダメと、四六時中言われました。母は目を光らせ、笑顔が消えていました。一生の別れになるかもしれないと、心を鬼にして娘2人をしつけたのでしょう。
札幌までは、父が山のようなリュックを背負って同行しました。上野からの汽車は、8月というのに、車窓にブラインドが下ろされ、景色は見せてもらえません。なにしろ、日本中どこでも「スパイ」に用心なのです。
青森に着くと、暗くなるのを待って青函連絡船に乗りました。真っ暗な夜の海を、灯りを消して渡る。目隠しばかりの、不安と緊張の旅でした。
東京に戻る父を見送る途中、姉がそっと「お父様が泣いている」と耳打ちしてきました。父は晩年、「あのときは、娘たちと永久の別れかと、涙が止まらなくて弱った」と苦笑していました。
戦後、家族が再び茶の間にそろうと、母に笑顔が戻りました。戦争中、明るいはずの茶の間が暗かったのは、灯火管制のせいだけではなかった。険しくなる母の顔が、子どもたちを不安にさせたのです。
お父さんがいてお母さんがいて、きょうだいがいる。それが平和のありがたさだと、よくわかりました。