ギリシャで過ごした小学校時代。商社マンの父から仕事の楽しさを学ぶ
南アフリカで生まれ、小学校2年生から6年生の夏までギリシャのアテネで過ごしたという屋代さん。商社マンの父の仕事を身近で感じながら、元気で野性的な小学生時代を過ごしました。
「日本から来た人を接待することが多く、当時は日本食レストランもなかったことから、週に3回は自宅で夕食をおもてなし。私も同席し、為替レートが360円ではなくなった、船を買ったなど、大人達が繰り広げるビジネストークにわくわくしながら夕食を食べていました」
明るく個性的な商社マン達の話は興味深く、大人の世界を垣間見ることができる楽しい時間だったそう。
「ビジネスのタネを探しまわっていた父は、『これを日本に送ったら売れるかな』と、ウナギを家に持って帰ってきて、プラスチックの箱に詰めて空輸便で送るなどしていました。そういう父の姿を見て、仕事って楽しそう、誰かの奥さんになるよりも船を買う立場になりたい、と思うようになりました」
経済学部に進学。就活を始め、男女で異なる職種しかない現実に驚く
父の背中を見ているうちに、グローバルなビジネスをしたいと思い、大学は経済学部に進学しました。
「子どものころに体感していたビジネスや世の中の動きを学問として学ぶことで、『こういうことだったんだ!』というのが分かり、面白かったです。次第に自分もリアルビジネスをやりたいと思うようになりました」
そこで、商社で働きたいと考えましたが、当時は、男女雇用機会均等法が制定されたばかり。商社では、女性は一般職の採用しかありませんでした。
「今まで普通に男女関係なく勉強してきたのに、クラスメートの男子は商社を受けられるけれど、私は受けられない、ということを知って衝撃を受けました。他の企業も女性の総合職採用は1人とか2人というレベル。そんな中、野村證券が初めて総合職の女性を5人採用する、というのを知りました」
バブルの絶頂期で日本の証券会社の中でトップの収益を誇っていた野村證券。エキサイティングな仕事ができ、何よりも女性も男性と同じ仕事ができる、という点に引かれて選考試験を受けたら採用されました。「きっと、帰国子女で英語ができる、という点が評価されたのだと思います」
次ページから読める内容
- “総合職”というバッジでは仕事ができず、打ちのめされた野村證券時代
- 寿退社をして、MITへ。1年半の留学生活でMBAを取得
- ゴールドマン・サックスで仕事が楽しくなり、マックススピードで働く
- 1人目出産後、8週間でフルタイム復帰。2人目出産後に転機が訪れる
- 社会貢献できるビジネスをしようと、まずは起業。検索エンジンを開発
- 5年間売り上げゼロ。資本金がゼロになる直前、大手旅行会社が導入
- 夫が大病に。「会社を守ってくれ」という言葉に決意
- 仕事って楽しい! 会社も育ち、人も育つ、という世界が夢