マタハラを世間に広く認知させた「マタハラ裁判」
日経DUAL編集部 2014年9月、最高裁でマタハラに関する弁論が行われました。あの事件について少し詳しく教えてください。
小酒部 はい。あれはいわゆる「マタハラ裁判」と言われる裁判で、マタハラが認知される大きなきっかけの1つとなりました。
病院で理学療法士をやっている女性が、第一子を妊娠・出産して、そのときは副主任職に就いていました。彼女は最初の妊娠の際に流産を経験しているので、再度、妊娠したときに作業を軽減してもらえるように職場にお願いした。そうしたら、副主任職から降ろされてしまった。彼女は、一回は職場の判断を受け入れるわけです。「自分が軽減作業をお願いしたから仕方がない」と。
ところが産育休から戻ってきてみると、第一子の育休復帰時と同じように働けるにもかかわらず、副主任のポストが永遠に戻ってこなかった。「妊娠を機にキャリアをリセットされてしまった」と。これに彼女は疑問を呈して、病院側を訴えるわけです。彼女は労働組合からも見放されていました。最初、労働組合に団体交渉をお願いしようとしたら、労働組合から「降格ごときでそんなこと言うなんて。諦めたら?」というようなことを言われたそうです。
結局、司法の場でしか解決できず、裁判でも一審も二審も敗訴でした。
マタハラ裁判を闘い抜き、立法を動かす被害者達に感謝を
―― そして最高裁まで進んだのですよね。
小酒部 はい、そこで逆転勝訴したわけです。最高裁で弁論が開かれるということは、一審や二審の判決が覆る可能性が高い。世間も注目していたと思います。
本当に、よく最高裁まで頑張ったなと感動しました。日本全国の中でマタハラに声を上げている女性がいることには本当に感謝の気持ちしかありません。彼女達がいることによって判例が作られ、司法が動いて、行政が動いて、初めて立法が動く。この最初の司法を動かしているのは彼女達です。彼女達の存在には、働く女性全員が感謝してもいいのではないかと思うくらいです。自分の人生を犠牲にして、年月割いてやってくれているわけですから。
そして、もう一つ言えるのは、最高裁まで行かなくてはマタハラが認められなかったことです。「一審、二審では何をやっていたのだろう」と思わずにはいられません。当時の日本社会のマタハラへの意識の低さが、ここからもうかがえますね。法律があるにもかかわらず、司法の場でさえ実効性がなかったという状態が浮き彫りになったと思います。
―― ものすごく大きな一歩ですよね。