外資系アパレルで販売成績1位、初めてアイデンティティを得られた

羽生 みなみさんが日頃おっしゃっている「装いのチカラ」を、6歳のときに身を持って深く実感されたんですね。その思いを持ち続け、大学卒業後は服飾関係の会社に入られて。

みなみ はい。当時日本に上陸したばかりだった米カジュアルブランド「エディー・バウアー・ジャパン」に入社しました。当時はまだユニクロもGAPもなく、大人のカジュアルスタイルが日本で浸透していない時代でしたが、卒業旅行で行ったアメリカで、かわいい花柄シャツを着てニコニコと歩いている老夫婦を見かけて衝撃を受けたんです。「大人になっても自分らしい装いを楽しめるなんて素敵!」と就職先を決めたんです。他は全敗でしたが、ここだけは面接を必死にがんばって入社できたんです。うれしかったですね。最初は店舗販売からキャリアをスタートさせました。

羽生 入社してすぐにすごい成績を出されたとか。

みなみ おそらく外資系アパレルでも初めてだったと思うのですが、毎日の販売成績が貼り出されるんです。そこでいきなり1位をとって以降ずっとトップでした。月600客くらい、1000万円ほど売り上げていました。それまで本当に要領の悪い子どもとして育ってきたので、数字ではっきりと成果が出せるのが嬉しかったですね。初めて自分の価値というか、アイデンティティを得られました。

羽生 個人の販売成績として全国首位、最年少店長と、みるみる昇進の坂をかけ上られていったんですよね。20代は思い切り全力投球できる時期でもありますよね。

みなみ 今振り返るとちょっと気持ち悪いくらい仕事に没頭していました。同僚が「週末に映画を観てきた」という話を聞くと内心「そんな暇があったら仕事したら…」と毒づいてしまうくらい。

羽生 えー! 今の朗らかみなみさんからはまったく想像できません(笑)!

みなみ 明らかにオーバーワークですよね。30歳を迎えたある日、電車で居眠りをして目を覚ましたときに、出社中なのか仕事帰りなのか分からなくなった時があって。体力の限界を感じ始めた時に、ヘッドハンターさんから電話がかかってきて転職を決めました。米ラグジュアリーブランド「BCBGMAXAZRIA」で、国内の小売り全体を見るエリアマネジャーというポストでした。同ブランドの販売経験もなく、いきなりやってきたマネジャーという立場でしたから、私も気が張っていたのだと思います。「なめられたらあかん」と全身ブラックスーツを着るようになりました。

羽生 役職のついた女性にはよくありがちな“変身”かもしれませんね。

みなみ 不思議なことに、黒いスーツが私の物言いまで変えるんですよね。必要以上にキツい言い方をするようになったのだと思います。ある日、部下の店長数名が「そんな上から目線から言われても」と不満をもらすのが聞こえてきて。ハッと気が付いて、少しずつ本来の“ゆるキャラ”スタイルへと戻していきました。すると徐々にコミュニケーションがうまくいくようになってきました。

羽生 またご自身の体験から気づいたんですね。

みなみ 6歳のときに生きるか死ぬかという状況の中で分かったはずのことなのに、また間違ってしまうんですよね。あらためて、自分がいま何をすべきかを考え直して「とにかく数字を出せばいい。私らしいスタイルでやっていこう」と心に決めました。上に立つ者の姿勢として強い物言いのリーダーシップが求められる気がしていたのですが、私が本来得意とするのは、皆が動きやすいように環境を整えて前に進めるように盛り上げていく「羊飼い」みたいなリーダーシップ。自分らしいマネジメントスタイルで行こう!と吹っ切れたら、すごくやりやすくなったんです。

羽生 「右へならえ」の日本の企業文化のなかでは、「自分らしい働き方」を実行するのは勇気がいるという声も聞かれます。みなみさんは不安はなかったですか?

みなみ とにかく結果を出せば納得させられると信じていました。自分らしいマネジメントスタイルを貫いたら、前年比20%売り上げ増の結果を出すことができました。