自己犠牲を伴わずに協調精神を発揮する

 アドラー心理学的な価値観に基づき、「勇気づけ」のコミュニケーションを意識しながら子育てを実践してきたご家庭のお子さんに(とはいえ、既に成人した大学生・社会人でしたが)、どのような子ども時代を過ごしたのかを聞いたことがあります。彼らはおおむね、このような話をしてくれました。

 私の親は、自分のありのままをいつも認めてくれようとしていた。何かができようができまいが、自分の価値に変わりはないことをいつも親が態度で示してくれたので、ずいぶん安心感を持てるようになったと思う。だから、成人した今、自分に不完全な部分があろうとも、そんな自分もまたよしと、自分のことを受け入れる心の余裕があるのではないかと思う。

 私のありのままを認めてくれる親は、言い換えれば、いつも自分を「(無条件で)信頼」してくれていたのだと思う。小さいころは、ちょっとした嘘をついたり、約束を破ったりすることもあったのだけれど、それでも「あなたを信じるよ。いつかできるようになると思うよ」と言われ続けると、さすがに「裏切れないよな」という気持ちになったのを覚えている。

 信頼できる周囲の人達の役に立ちたいと思う。そして皆から「ありがとう」と感謝されると、自分の貢献が確認でき幸せな気持ちになる。「自分がそうしたいと思うこと、イコール、誰かの役に立つこと」と感じられるようになったので、特に自己犠牲を感じながら何かをするということもない。「ありがとう」と感謝されるまでもなく、自分の存在が、そこにいるだけでも役に立っている、価値があるという実感を持てていると充足感を感じる。

 人間というものは、恐らくDNAレベルで「信頼できるところに所属したい」という願望があるのでしょう。そして、所属する仲間からの承認を求めることを超え、不完全さも含めた自分らしさを自分で認めることができ、自分の心地よいことに素直なままで、「嫌われる勇気」を持ちながらも所属する仲間の役に立っていると実感できたとき、私達は一番の幸せを感じることができるのでしょう。

 ある意味で自己満足の追求のような、自分の幸せに貪欲になることが、実は同時に、信頼する仲間全体の利益になっている。これこそが、自己犠牲を伴わない協調精神の発揮、すなわち「他者貢献」であり、アドラーはこのような感覚を持つことを「共同体感覚」と呼び、人間が生きるうえでの目指すべき姿としました。

 自分の子どもが、このように、ありのままの自分らしさを保ちながら、好きなことで誰かの役に立てることを実感できる生き方ができたら、うれしくないですか?

 あるいは、共に仕事をする仲間達が、このように内発的に動機づけられて、仕事を楽しみながらチームに貢献し合っているとしたら、きっと良い成果が出るとは思いませんか?

 そして、自分自身が「あなたのために・・・してあげているのに!」という自己犠牲感を感じることなく、ただ誰かのために何かをすることで満足できたら幸せだとは思いませんか?

 親子で、夫婦で、あるいは職場の仲間同士で。「共感ファースト」で相手に向き合い、相互尊敬・相互信頼をベースに、立場や役割にかかわらず「ヨコの関係」でコミュニケーションを図る。そうすることで、おのおのが「ありのままの自分」らしさを保ちながら、協調精神を発揮して仲間に貢献し合う。こうしたお互いに「勇気づけ」をし合うコミュニケーションを周囲の人達との間で増やしていくうえで注意したいこととして、次に、「ほめる」ことの副作用について考えてみたいと思います。