一日100回以上の発作を経験、それでも「生きようとする」強さ

 優大くんの誕生を見届けた後、25歳の若き父親は単身・中国広州へ赴任します。「こんなに長く休んで、これ以上会社に迷惑は掛けられない」と焦りを感じる広数さん。現地での仕事は、販路拡大のためのセールスマネジャー。日本での営業経験もなく、大学で専攻していた北京語は通じるものの、部下達や仕事上の会話はすべて広東語です。

 「自分は半人前なのに、責任の重い仕事を任されている。早く結果を出して、チャンスをくれた会社に報いなければと、毎日朝は7時半から夜は12時近くまでがむしゃらに働き、家庭教師をつけて広東語の勉強もしました」

 一方、日本では優大くんが生後1カ月でてんかんを発症。全身を激しく震わせ、呼吸も止めてしまうほどの大きな発作が起こります。発作は多いときで一日に100回以上、一度に5分続くことも。入院は1カ月以上も続きました。発作の不安からか優大くんはベッドで眠ることができず、幸恵さんが一日中抱っこをして母乳をあげ、少し仮眠してまた抱っこして……を繰り返す日々。

 「何より苦しかったのは、腕の中の小さな優大が発作のたびに呼吸を止めて全身が紫になる、その様子を見ていることしかできない自分の無力さです。優大がどうなってしまうのか、死んでしまうんじゃないか、という不安を一人で抱えるのは相当なストレスでした」

 メールやSNSのない当時、中国にいる広数さんとの連絡手段は、国際電話やFAXが中心。日々の報告をしたり、お互いの体を気遣ったりしながら、この試練を乗り越えます。広数さんは「電話の向こうの様子を想像しながら大変な状況を頭では理解するものの、実際は自分のことで精いっぱいでした」と振り返ります。

 「そんな未熟な僕の気負いと焦りを察して、妻は大変な状況にもかかわらず僕を気遣ってくれました。毎日連絡を取り合う中で、『発作が落ち着いたら広州に来てほしい。家族はそろっていたほうがいいし、僕も何かできるから』といつも伝えていました」

 試行錯誤の末、効き目のある抗てんかん薬が見つかったことで、優大くんのてんかん症状は安定し、肉付きの良い赤ちゃんへと成長します。生まれ持った生命力と生きようとする力を目の当たりにした幸恵さんは、優大くんと過ごす貴重な一日一日を大切に生きていこうと決意。そして、優大くんが5カ月のとき、広数さんが待つ中国広東省へ旅立ちました。

優大くん4カ月、中国へ旅立つ前の写真。中国では、家族3人で過ごせる幸せとともに、様々な困難が待ち受けていました
優大くん4カ月、中国へ旅立つ前の写真。中国では、家族3人で過ごせる幸せとともに、様々な困難が待ち受けていました

中国での子育て。安全な食べ物、親身な病院、頼れる施設を求めて

 「生活環境、医療、食べ物など不安は尽きませんでしたが、家族が一緒に暮らせる状況を第一に考え渡航しました」と幸恵さん。しかし、文化の異なる中国で障がい児を育てるということは大変な負荷を伴うもの。一人っ子政策の下、街で障がいのある子どもを見かけることはめったになく、優大くんは人々の好奇の目にさらされます。べビーカーの幌を突然開けて中をのぞき込む人までいました。

 「日本より多くの種類の抗てんかん剤が認められている中国ですが、より優大に合った薬を求めて現地の医師に掛かれば『なぜ、この子を産んだのか?』と責められました。通える幼稚園や施設も見つからず、何の情報も助けもない。乳腺炎になったときは『乳房ごと切除する』と言われ、日本へ緊急帰国して治療をしたこともあります。家族三人で暮らせる幸せ以上に、様々な困難と時折押し寄せてくる重い疲労感に、少しずつ私は心から笑うことができない、そんな感覚を覚え始めました」と幸恵さん。

 当時の幸恵さんにとって、相手を気遣い、幸せを支える存在であることは、生きるうえでの重要な意味。幸恵さんは、キャリアの大事な時期でもある広数さんを支え、さらに子育てのほとんどを広数さんに頼ることなく担っていました。パパの仕事は駐在員、家事・育児はママの仕事。広数さんの固定観念は、意識しないうちに幸恵さんを追い詰めていきます。

 優大くんに欠かせない日課は、一日に3回抗てんかん薬を飲ませること、ゆっくりと辛抱強く離乳食をあげること、そして、自分ではまぶたを閉じられないため、眠った後に低刺激性のテープを貼りまぶたを閉じて目を保護することの3つ。精神的にも肉体的にもぎりぎりの状態だった幸恵さんは、一人でわが子の命を預かっている重責のつらさを夫にも分担してほしい……という思いで、「一日1回でいいから、薬を飲ませるのを代わってほしい」と広数さんに求めます。

 投薬は、錠剤を鉢ですり潰した後、色々な種類の薬を水と混ぜ合わせ、鼻のチューブを通して注射器で注入する手間のかかる作業。感染を防ぐために、注射器は終わった後で丁寧に洗って台所に並べて干さなければなりません。広数さんは幸恵さんの切羽詰まった思いに気づかず「面倒臭いからイヤ」と一度は断り、話し合いの末、渋々ながらに引き受けます。

 心のよりどころであるはずの夫でさえ、自分の苦しみを理解してくれない。中国での生活に限界を感じ、幸恵さんは「もう無理だと思う」と広数さんに告げます。その言葉で初めて幸恵さんがそこまで追い詰められていたことを知る広数さん。

 「大変そうだなと感謝はしても、子育ての現実味が全くない僕。『一緒に住んでいるから家族は大丈夫』と思い込み、家庭を顧みることを怠っていました。僕の育児への無関心と命を任せきりにしていることが原因だったのに、『あと1年だけ、駐在生活を続けさせてほしい。もう少しで手掛けていることが形になるんだ』と、単身赴任を継続する意向を妻に伝えたんです。実家に戻れば義母も育児を手伝ってくれるし、僕がいなくても何とかなる。あと1年あれば満足のいく成果を残せる。当時はその程度の気持ちしか持てない感性の持ち主でした」

 2003年、幸恵さんは3年間暮らした中国を後にし、優大くんと共に日本へ帰国します。