六本木ヒルズが真っ暗に。「世界に出なければ」

 吉田さんが社会に出た年に起きた山一證券破たん以降、かつては「世界のジャパン・メーカー」といわれた企業が軒並み競争力を低下させていく時代に突入した。2006年に結婚した妻の職場、JALも破たんした。

 不況とデジタル化の波で、広告の仕事も激変していった。年間の広告数が減り、単価の低いネット広告の仕事が増加。結果、手数が増えて売り上げは減るという負のスパイラルに業界全体が陥っていくのを、肌で感じたという。

 決定的だったのは2008年のリーマンショックだった。当時、吉田さんは六本木ヒルズの前に建つマンションに住み、深夜まで煌々と光るヒルズの灯りを見ながら帰宅する生活をしていた。その灯りが、ある日突然消えた。

 「日本企業の競争力が弱くなれば、顧客をつなぎとめることもできなくなる。このままでは顧客は減っていく」と危機感が増した。

 世界に通用する力を付けたいと海外異動希望を出していたが、クリエイター職のポストがなく、打診されたのが「福岡転勤」。東京生まれ東京育ちの吉田さんにとっては「海外と同じ感覚」で、2009年に九州へと飛び立った。すると、同じ日本とは思えない仕事環境が待っていた。

 「CM制作の予算は東京の5分の1以下でしたが、規模が小さい分、意志決定が速くてシンプル。社長に直接交渉して即断してもらえることも多かったんです」

 知らない土地、知らない文化、知らない人。知らないだらけの場所で、吉田さんは「せっかくだからディープに関わろう」と地域活動にも積極参加。生産地と消費者をつなぎ、企業をスポンサーに呼ぶような、福岡ではまだなかったプロジェクトも立ち上げるなど、「新しい場所でゼロから自分の価値を作る」ことに集中した。その結果、地元企業の社長から経営全般の相談が来るほどの信頼関係も育った。

 大企業の東京本社に籍を置いていたときには味わえなかった充実感だった。同時に、「東京を離れても、どこででも仕事は作れる」という自信も生まれた

 2009年夏に長男が生まれ、父親になった吉田さんは、マスに向けて華やかな広告を作る仕事よりも「地域に密着して社会に貢献できる仕事」に、よりやりがいを感じるようになっていった。

 2011年3月の東日本大震災を機に、その考えはより深まった。日本の産業全体が揺れる中、「世界から日本に刺激を与えられる仕事ができないか」と真剣に考えるようになった。