「教育を受ければ年収が上がる」と教えると、子どもの学力は上がる

中室 開発途上国で行われた研究の中に、子どもに一生懸命勉強しようと思わせるようなインセンティブを与えるということを、非常に低いコストで実現した研究があります。それが、「情報提供」です。教育を受けることによってどれだけ経済的なメリットがあるかということを子どもに教えるということです。

 この実験では、「情報提供」と「子どもの学力」の間の因果関係を明らかにするために、「ランダム化比較試験」と言う方法が用いられています。急に専門用語が出てきて驚かれたかもしれませんが、そんなに難しい話ではありません。

 この実験では、小学校に通う子どもをランダムに3つのグループに分けました。1つのグループでは、子どもたちは、その地域で暮らす人たちが1年余計に教育を受けることによって何パーセント収入が上がるかという数値(これを経済学者は「教育の収益率」と呼んでいます)の情報提供を受けました。もう1つのグループでは、子どもたちは、その地域出身のロールモデルとも言うべき著名人の講演を聞き、そのロールモデルから教育の重要性についての情報提供を受けました。そして最後のグループでは、子どもたちはそのいずれの情報も与えられませんでした。この実験が行われた5カ月後に学力テストを実施してみると、驚くべきことに1つめのグループ、教育の収益率の情報を提供された子どもたちのテストの成績は、他の2つのグループに比べてかなり高くなっていることが分かったのです。

 ロールモデルから教育の重要性について情報提供を受けたグループの子どもたちも、何も情報提供を受けなかった子どもたちに比べると成績は良かったのですが、教育の収益率について情報提供を受けた子どもたちの成績の情報にははるかに及びませんでした。

 なぜでしょうか。このことを知るための重要なヒントは、ロールモデルから情報提供を受けた子どもたちの反応の中にあります。実は640校もの学校を対象にして行われたこの実験では、ロールモデルとして派遣された著名人には、様々な人がいました。要するに、ちょっとしたプチセレブのような人から、テレビに出るような有名人までいたわけです。こうした中で、特に成績が良くなったのは、テレビに出るような有名人ではなくプチセレブから情報提供を受けた子どもたちだったのです。

 これはおそらく、「どれくらい自分事にできるか」ということが重要なのではないかということを窺わせます。つまり、テレビに出るような有名人の経験よりは、プチセレブの経験のほうが、プチセレブの経験よりは、その地域の人が全員含まれている統計データから算出された教育の収益率のほうが、自分の将来を描く上で正確な情報であることに間違いありません。教育の収益率の情報を知った子どもたちは、「ちゃんと勉強して、学校を卒業すれば、収入が上がるのだ」という、あまりにも当たり前の事実を認識し、きちんと勉強するようになったというわけなのです。

  私はこの研究を知ったとき、日本の子どもたちの中に、自分が学校を卒業した後にどういう仕事に就くか、どれくらい稼ぐことができるかを想像することができている子がどれくらいいるだろうか、と思いました。最近でこそ、「キャリア教育」などという言葉は珍しいものではなくなりましたが、実際には卒業後の職業やキャリアを意識した教育を実現できている教育機関は稀だと感じます。学校を卒業した後自分がどうなるのか、ということがリアルに想像できないことは、今目の前にある学びの価値を下げることに他ならないのではないでしょうか。

―― 「お金は汚いものだ」といった考えが、まだまだ日本の教育現場にはある、ということでしょうか?

中室 私が調査をしている中でも「お金のために何かをすることは良くないことだ」と教えている学校があると聞いて、大変驚いたことがあります。すべてがお金のためではありませんが、一方でお金を稼ぐことはとても重要なことです。個人や企業がお金を稼ぐから、経済が成り立っているのですから。それだけでなく、先に紹介した研究からも明らかなように、教育の経済的価値を強調することは、決して子どものためにマイナスにはならないと私は思います。

高卒と大卒の生涯の賃金格差は約1億円

中室 高卒の人と大卒の人の生涯の賃金格差は約1億円です。1億円というと余りにも大きな数字でどのくらいの金額か想像できないと言う人もいるかもしれませんが、宝くじで1億円が当たる確率は200万分の1です。

 一方で、人が交通事故で死ぬ確率は10万分の1。飛行機事故で死ぬ確率は100万分の1。それより低い確率でしか1億円は当たらない。でも、そんな低い確率で宝くじで1億円を当てようとしなくても、大学を卒業すれば、あなたの生涯の収入は1億円上がるのです。アメリカで行われたある研究では、株式や債権などへの金融投資から得られる平均的な利回りは、大学進学への投資から得られる利回りに遠く及ばず、私たちが高度な教育を受けることよりも有利な投資先を見つけることは極めて難しいと述べられています。

 もちろん、教育の目的は収入や職業だけではありません。例えば、最近行われた研究によると、教育は次世代の子どもたちの健康状態を良くすると言う研究もありますし、教育によって犯罪率が低下したり、投票率が上昇するといった外部性を指摘するものも少なくありません。しかしいずれにせよ、そうした遠い未来のことを子どもたちが自ら想像するのは難しいことです。子どもに教育がもたらす恩恵について伝えることは、私たち大人の重要な役割なのではないでしょうか。

(取材/日経DUAL編集部 小田舞子、撮影/稲垣純也)