24時間戦っていた外資系投資銀行時代
帰国後、JPモルガンで働き始めたのは28歳のときでした。
「仕事の内容や与えられたミッションはものすごく充実感があり、やりがいがありました。英語と日本語が飛び交う丸の内の大きなオフィスビルで何億というディールをさばく、と今から思うとドラマの世界のようでしたが、実際にはものすごく地味な仕事の積み重ね。文字通り24時間常に働いている感覚でしたね」
当時も仕事そのものには満足していましたが、父が他界したのをきっかけに母親も体調不良に。そこで家族をケアする必要性を感じたそう。
「休みなく働いていた当時は、家族からのメールに返信することも出来なかった。自分自身に余裕がなさすぎて、いつの間にか家族を避けるような思考になりつつあったことに愕然としました。それで、金融コンサルティング会社に転職を決めました」
転職し社内起業に奔走。妊娠、出産、復帰も経験し新たな気づきも
銀行にリスク管理のコンサルティングを行う会社で山下さんが担当したのはオペレーショナル・リスク・データベースの立ち上げ。
「人やシステムが業務を回すことでミスや事故が起こる可能性(リスク)に対処するのがオペリスク管理。専門家と一緒に国内で初めてのオペリスク管理のための共同データベースの立上げを行いました。社内起業みたいでした。このままオペリスク管理を専門にして深めていけば、大きなことができるという感覚があり、これを軸に頑張ろうと思っていました」
そのころ妊娠し、長女を出産しましたが、3カ月で職場復帰。事業を立ち上げたばかりだったので、すぐに仕事に戻ったそう。
「外資系企業に勤めているときに産後2カ月で復帰するのが当たり前、戻ってこないと逆に仕事がなくなるという状況を見てきたので、産後すぐに職場復帰することに抵抗はありませんでした。けれど、いざ子どもが生まれると、あと少ししか子どもと一緒にいられない、と後ろ髪を引かれる思いに。毎晩、娘に添い寝しながら『もう寝ちゃうの?』と寂しい気持ちになっていました」
保育士をしていた義理の母からなんとなく内情を聞いていたので、出産前から危機感を持って保活を開始。アクションが早かったこともあり、運を掴んで保育園に預けることができました。
「産後3カ月で復帰すると、ブランク感がないので業務のキャッチアップは早かったですね。子どもも保育園がおばあちゃんの家みたいな感覚で、新しい環境に慣れるのもスムーズでした」
業務中は必要に応じてトイレで搾乳し、こっそり共有冷蔵庫に入れていたそう。
「子育てをしながら働く生活は、やはり苦労はありましたが、私の場合は環境にすごく恵まれていたと思います。義理の両親が近くに住んでいて、産後も仕事を続けることを私に推奨してくれたのも義母。夫もアメリカ仕込みのマインドを持っているからか、共働きや家事分担に対する理解がありました。実際、家事能力は夫の方が高くってちょっと悔しいです(笑)」