経験とは、共有される「思い」でもある

 当事者として声を挙げるのは物理的にも精神的にも本当に大変だ(エルゴの抱っこひもを使ってるだけで余裕あるとか難癖つけられたりね)。でも、今変わらないと、今後はもっとひどいことになる。その一心でみんな行動したり、書いたり読んだり、声を挙げたりをつづけている。現実や環境が変化して、子の成長などにつれて問題の雰囲気こそ変わるけれど、しかしやっぱり、経験というもので理解しあえるものはある。繋がっているものはある。そしてその繋がりは、もちろんじっさい的な子育ての経験の有無に限らない。それぞれの立場と理解から、そこにある問題を本当に切実に捉えて行動している人たち、他者を思いやる気持ちを持っている人たち、そして少しでもよりよい社会を作ろうと努力している人たちに、共通するものなのだと思う。経験とは──少しおかしな言い方になってしまうけれど、じっさいの経験を超えて、共有される「思い」でもあるのだと思う。なんだかすごく教科書的な物言いではあるけれど、でもこれが、わたしが数年間で学んだ大切なことのひとつだと思う。できるだけ忘れないこと。覚えていること。そして、想像しつづけること。なにしろ生きていると毎日が精一杯で難しいことばかりだけど、でもなんとか、なんとか。

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 最後になりましたが、このような素敵な連載の機会をくださったサントリーさんと日経DUALさんに心からの感謝を。そして何よりも、毎週このエッセイを楽しみにしてくださった読者のみなさまに、深い深い感謝を。ご感想や反響に、とても励まされました。妊娠~出産~育児については拙著『きみは赤ちゃん』でたくさんたくさん書いたので、そのあとはもう子育てについて書く機会もあまりないだろうなと思っていたのですが、思いがけずいただいた16週間は、わたしにとって本当に贅沢な時間でした。そして、わたし自身が女性で母親であることから、記事の内容はどこかしら「母親目線」または「女性目線」のものが多くなってしまったような気がするけれど、でももちろん性別や役割は関係なく、迷いながら、試行錯誤しながら、がんばっている人に読んでもらえたら、という気持ちでおりました。少しでも、伝わっているといいな。そしてまたいつか、どこかでお目にかかれたらうれしいです。そのときみなさんはどこで何をしてるんだろう。でもきっと、そのときも全力でその日を生きているに違いないですね。今日もフレシネを飲んで、そんなことを考えた。

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