子育てから仕事から夫婦関係から社会問題まで、働く母とはなんと多くの顔を持って生きていることだろう。最愛の息子を育てながら小説家として活躍する川上未映子さんが、素敵も嘆きもぜんぶ詰め込んだ日々を全16回にわたりDUAL読者にお届けします。第15回のテーマは、「子どもをめぐる不幸な出来事」についてです。

 昔からネガティブな性格ではあったけれども、子どもを持って加速した感じがすごくする……ああ、いま、何事もなく生きていることって本当に奇跡なんじゃないだろうか。今日もフレシネを飲んで考えた。

 子どもの頃、祖母が仏壇にむかって手を合わせ、「どうか今日も、みなが無病息災、無事でありますように、なんまいだぶなんまいだぶ……」と毎朝ぶつぶつと、わりに真剣にお願いしているのを見ながら、どうもよくわからなかったのだ。というのも、神さま仏さまがいるいないにかかわらず、なんかこう、仏壇に向かって熱心に手を合わせるぐらいのことで人が死んだり死ななかったりする、というのが、うまくイメージできなかったのである。つまり、お祈りとかしても大変な目に遭うときは遭うんだし、あんまり意味がないように、感じていたのである。

 しかし、子どもを持って数年。この気持ちが、いまや痛いほどにわかるのである。

我が子の痛みは自分の痛み以上に痛い

 子と親は、ほかのどんな人間関係ともちがう間柄であるけれど、しかしそれぞれ別の体を持った「他人」である。でも、これがどういうわけか、たとえば我が子の痛みは自分が感じる痛み以上に痛いのである。もちろん、じっさいにその痛みを感じるのは子なので、そんなのどこまでも比喩にすぎないのだけれど、しかしこれは、やっぱりある種の実感をともなった真実であるように思う。

 子になにかあれば今すぐに代わってやりたいと心底思い、しかし代わってやることなどできないという現実も含めたそれは痛みで、子の痛みは、やっぱり親の痛みなのである。それは何よりも辛い(もちろん、個人差があると思います)。

 しかし、くりかえしになるけれど、子に何かあればじっさいに苦痛を味わうのは子自身なので、だからこそ親は子を守り、危険を回避し、健やかな毎日を送ることができるように日々緊張しているのだけれど……しかし、どうしようもないことが起きてしまうのが、人生なのだ。