たとえば病気。たとえば事故。たとえば災害。そして子どもが犠牲になる犯罪。これらは、遭おうと思って、また罹患しようと思ってそうなる人はおらず、こればっかりはもう、どうしようもないのである。どこでどう、そうしたことやものにかかわることになってしまうのか、これはもう、誰にもわからないことなのだ。

つねに世界に不幸な当事者がいると思うだけで耐えられない

 そんなの当然といえば当然で、生きるということがそういうことでしかないのだけれど、しかしこれって、ものすごいことではないだろうか……わたしは毎晩、本当に不安になる。何も起こらなかった今日が当然のこととはまったく思えず、「今日は、なんとか乗り切った……」と、いちいち確認せずにはいられない。そして、すごく怖くなる。それはいつか自分が当事者になってしまうのが怖いという恐怖だけではなく、いまこの瞬間にも、つねに世界には当事者がいるということで、そのことじたいになんだか耐えられないような、そんな気持ちになってしまうのである。

 子どもたちをめぐる不幸な出来事や事件を、目にしない日はない。ニュースや新聞記事でふれる限りにおいて、それは他人事といえるかもしれないけれど、しかしやはりそれは、どこかでこの自分や子とも、つながっていることなのだ。いつ、誰の身に、どのようにでも起こり得るという点でも、やはりそれはそうだ。生きているだけで、今は当事者ではないかもしれないすべての人が、しかし生きているだけで当事者性を秘めている。もちろん、当事者性だけがその「つながり」の根拠ではないけれど、かくも不確かな日常を、わたしたちは生きているのだと、あらためて思い知らされる。

 だから、できることといえば、可能な範囲での難病子ども支援への寄付や募金、情報をシェアして応援をする、といった細々とした個人活動のほかにはもう、じっさいのところ、なんというか祈ることしかないのである。誰に何をお願いすればよいのかわからないし、祈ったところで不幸な出来事が世界から減っていくわけでもなんでもないけれど、だからこそ、日々突きつけられる圧倒的なこの無力感は、そのまま祈りに近くなる。それが、このごろ理解できるようになったのである……。