18歳年下の同級生達と飛び込んだ看護の世界 病棟勤務を経て、看護協会へ

―― 看護師さんは、とても意義ある仕事ですが、体力的にも精神的にも大変な職業だと思います。40歳を過ぎて一からやるのは大変ですよね。

木村 臨床がやりたくて看護師になったわけですが、夜勤もあるし、やはり大変さはあったと思います。これは、年齢を重ねていたからかもしれませんが、私自身、何かミスをしてしまったら訴えられるということを、他の若いナースよりも気にしていました。もし自分自身がしたことで患者さんに何かあったら大変だという意識が、周囲よりもありました。無邪気に仕事ができないというのでしょうか。勤務時間が終わった後にとても心配になって、病棟に戻って確認するということが何度もありました。これを毎回やっていたら、精神的にしんどいですよね。

 でもその一方で、年齢を重ねているからこそ、患者さんからの相談を受けることもたくさんありました。婦人科にいたのですが、末期がんの患者さんが「残された子どもはどうなるのか」と涙ぐんでいたり、子宮を失う方が「今後の夫婦関係はどう変わってしまうのか」心配していたり。

 結婚や育児をしている分、相手が言わんとしていることが分かるじゃないですか。抜本的な解決法がなくても、話を聞いて寄り添うということは看護の基本中の基本で、そういう相談に乗ることができたのは、良かったと思っています。38歳で看護学部に編入したナースならではですね。

―― その後、日本看護協会に勤務されますが、どんなきっかけだったのでしょうか?

木村 慶應時代の恩師が看護協会の会長に就任されて、私に声を掛けてくださったのがきっかけでした。学生のころから、「卒業したら看護協会にいらっしゃい」と誘われていたのですが、やはりまずは臨床をやりたくて、最初は病棟勤務の看護師として働きました。本当はもう少し臨床をやりたかったのですが、体力的なこともあって。

 それに、臨床時代に感じていたんです。看護師の方は何かあっても、「自分が我慢すればいい」「自分の確認不足だった」と大きな声を上げないんですよね。もっと専門性を認められてもいいのではないかという気持ちもあって、より自分らしさを発揮できるのは、看護協会ではないかと思いました。

―― その看護協会では、全国各地の現場で勤務する看護師達とつながりますし、そこで様々な事象を見てきたこと、経験してきたことがすべて今につながっているのではないでしょうか?

木村 本当にそうですね。看護協会のときには広報部だったので、全国各地を回って取材していました。何がモチベーションかというと、どんな地方の片隅の小さな病院でも、すごく志の高い看護師がいて、それを見守っている看護管理者がいる。その人達の活躍を、看護協会のときには会員読者に伝える、今であれば議員の人達や社会に伝えることが自分の仕事だと思っています。