わが子の中学受験を経て、自分自身も看護学部を受験することに

藤村美里さん
藤村美里さん

―― 幼稚園、小学校と愛情たっぷりに育ててきた後、ご自身で新たな道に進もうと決意したのは、息子さんが何歳になったときですか?

木村 息子が小学3年生のころ、父が都議会議員から衆議院議員になりました。そのとき、私も秘書の一人として議員会館の事務所で働くことになったのです。ちょうど介護保険制度の始まるころで、自民党の部会でも介護保険の勉強会がありました。とても興味があって何度も通ううちに「これからは看護の時代だ」と何となくひらめいたんです。そして「育児が落ち着いたら看護師に」という目標もでき、その後は、派遣社員として民間企業で働きながら少しずつ学費をためました。

 ちょうど息子の中学受験もあったのですが、もう思春期でしたし、「子どもというのは自分とは違う人間。その子どもを勉強させるというのはすごく大変でエネルギーを使う」ということを痛感しましたね。無駄な親子げんかも勃発するし、自分自身が勉強したほうがずっと楽だなと確信しました。

 当時私は38歳。息子が中学に入って、そろそろ子離れしないといけない時期でもありました。そもそも18歳で大学に行って、22歳で卒業しましたが、その後ずっと新しい知識をインプットすることがあまりなく、なんだか自分の頭の中が枯渇してしまっているような気もしていたんです。長い人生、また学び直すのもいいんじゃないかと。

―― 30代後半から大学編入試験、しかも全く違う専門分野のことを学ぶのはかなり大変だと思うのですが、慶應大学の看護医療学部を選んだのには何か理由があったのでしょうか?

木村 慶應は9月に2年次の編入試験があって、入学試験の科目は英語と小論文だけでした。一般の入学試験は2月だったので、その前にまずは慶應に挑戦してみようと思ったのが理由です。今は分かりませんが、当時は理系科目の試験はありませんでした。

 なんとか合格して、18歳年下の同級生達と一緒に学ぶことになったわけですが、それからが大変でしたね。病院の実習で、実習生はエレベーターを使ってはいけないというルールがあったときには、4階であっても階段で上ります。もう、おばさんはしんどくて(笑)。実習が始まる前から、1人だけヘトヘトに疲れているなんてこともありました。

 でも、看護の世界を目指す人って、真面目で優しい人が多いんです。息子は「おばさん、いじめられてない?」なんて心配していましたが、皆さんとても仲良くしてくれて。今でも時々集まっています。掛け替えのない、自慢の友人達です。