人生とは、たえず持ち物が入れ替わる流れなのだ

 とまあ、書いてゆけば少々わびしい気持ちにもなるんだけれど──そしてそのかわりと言ってはなんだけれど、明るいほうをみれば明るさはあるわけで、もちろん付け加えられたものも、あるのである。それは息子というかけがえのない存在であり、母親という立場とその関係。そう思えば、「べつに母親になったという変化は関係ない。だって、生きるということはひとところにいられないということで、いつだってそうやって生きてきたのだから。人生とは、たえず持ち物が入れ替わらざるをえない流れなのだ」と納得もするのだけれど、でも、なんというか個人のままで、たまに友達と飲みにいくとか、お茶でもして雑談するとか、そういうことはあってもいいと思うのだけれど、どうなんだろう。

 しかしそのためにはまずそういうことをする相手を見つけなければならないわけで、しかしそのためには友情をはぐくむ時間が必要……ということで、やっぱり当面、個人的活動は不可能ということになってしまうのだ。

 失ったものと新しくやってきたもの。育児とは、このふたつを見つめながら、見つめていることも忘れてしまうくらい、何かに追われている日々のこと。「あのときなんであんなに時間なかったんやろー」と、友達と温泉につかって笑いながら、いつかすべてを懐かしいと思える日がくるんだろうか。いや、きてくれないとまじで困るな、と思いつつ、今日もフレシネを飲む夜なのだった。仕事しながら。

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