つねに何かしらのあきらめとともに子育てはある

 断言するけれど、家事と育児をしっかりやろうと思ったら仕事なんかほとんどできないし、仕事をしてがんがん稼ごうと思ったら、家事や育児なんかしっかりできない。たとえば、今の収入を維持しながら家事と育児をやってのける男性がいったいどれだけいるだろう? どれだけ一生懸命やったって、中途半端になってしまう。「だいじょうぶかな、やれてるかな、やってるよね……」と自問しながら、だましだまし、毎日を手探りでやっていくしかないのである

 当事者以外から見れば、こんなのただの泣き言で、「ぜんぶ自分が選んだことでしょ」で済んでしまう話で、じっさいそれはそうである。でも、経験することではじめてそれを生きることができ、そしてそこにある問題を知って、改善して、よりよく生活できるために努力するのは、なにも子育てと仕事を選んだ人に限らない。一度しかない人生を生きるということがそれじたいなのであって、どんな人生を選んだ人だって、やっていることなのだ。みんなそれぞれの立場で、環境で、問題を抱えて生きているものなのだ。

 仕事してがんがん稼いで、子育ても家事も、なんて──もちろん個人差もあるし、他人による評価、自己評価によっても違うだろうけれど、でもそんなのはある意味でファンタジーでしかない。つねに何かしらのあきらめとともに子育てはある。そして大事なのは、そんなあきらめとは似ても似つかない輝きでもって生きている子どもを育てているということ。つまり、ものすごい極端なものを同時に抱えて生きているということで、それが大変じゃないわけないですよ。大変な仕事をしている、大変な時期を生きている、と誰に言わなくても言われなくても、でも自分だけは、ときどき自分自身を静かにねぎらってやってください。それくらいいいじゃないですか。今日もフレシネを飲みながら、そんなことを考えた。

■フレシネのウェブサイトはこちら
honto+でも同コラムを掲載しています。