これは、とても理解できる。たとえば人生が2度あれば、1度目の経験によってきっと2度目の人生そのものの意味が変わってしまうだろうし、これは子育てにおいても、ある程度置き換えられる話だと思う。友人や親戚も、1人目に比べて2人目の育児の精神的なラクさには(やることが倍になる、という基本的な労働の部分はさておき)ものすごいものがあると教えてくれるし、逆に1人目のときに毎日どれだけ緊張していたのか、ということを思い知らされるのらしい。これはわたしにも想像できる。それがなんであれ、「はじめて」と「それ以降」では、体験の質そのものが違って感じられるだろうと思うもの。「慣れ」とは本当に逞しいもので、1人目のときでは考えられないくらい、気持ち的には余裕を持って、育児できる部分もあるんじゃないだろうか。

 そして、そういう知恵と経験を持ってから臨む「2人目以降の育児」にこそ、育児の醍醐味があるのだと言う。つまりどういうことかというと、1人目のときなんかは、なにもかもが慌ただしく初めてのことばかりがただ過ぎ去ってゆくだけで、親としては何にもわからないままなのだと。これも想像できる。そして2人目以降になってはじめて「子育てのコツ」のようなものがつかむことができ、「教育」とか「接し方」のようなものがわかる部分がでてくる、とつづき、結論としては、「なので、ぜひ、2人目以降も子育てすることをおすすめしたい。よりよく、子育てができますよ」というような話になるのだったけれど……。

親として成熟したいから生むわけではないのだ

 話の筋としては、よーく理解できる。それが職人であれ人の親であれ、成熟するためには経験が必要なのは道理であって、1人育てた人と、5人育てた人では、それはもちろんあらゆる面において大きな違いがあるだろう。けれどわたしが少しひっかかったのは、べつに親として成長したいから、成熟したいから、そしてそのスキルを子育てに生かしたいから、子どもを生んだ/生むわけではないのであって、「だからこそ2人目以降も」というのは、なんだか少々、本末転倒な感じがしないでもないのだった。子育てという、のっぴきならない状態に放り込まれたが最後、親として成長するしかないから変化していくものであって、みなさんが仰るようなある種の「合理性」のようなものは、育児からいちばんかけ離れたものではないだろうか。