それもそのはず。たとえば……。ふだんは「男だから、女だから」という言葉はぜったいに使わないようにしてはいても、ひとたび公園などに出かけてあっと転んだりなどすれば、すかさずお友だちの親御さんたちから「男の子だから泣かないよね〜」、「男の子は強いんだよ〜」というふうに、声をかけられてしまうのだ(もちろん、お気持ちはうれしいんですよ)。その場でいちいち訂正するのもむろん角がたつので、もやもやしながら微笑んでいるのだけれど、しかしその数が多くなるとやっぱりじりじりする。いくら家庭内でいわゆるジェンダフリーを意識してはいても、多勢に無勢というか、どうやっても追いつかない感じがして、ひるんでしまう。

社会のOSは男性、女性はアプリでしかない

 でもまあ、それはそうですよね。だって社会のほとんどどこを切ったって、構造がそういう作りになっているのだもの。いつまでたっても社会のOSは男性で出来ていて、女性は実質ひとつのアプリケーションでしかないってことは、日経DUAL読者のみなさんなら骨身に沁みて、ご存知のとおり……。とはいえ、そんな状況に呆れ&歯ぎしりしつつも、生活の細かーいレベルでみてゆけば、着るものの色や形、遊び道具、アニメや物語……ゆくゆくは、ひとりの人間の価値観を作りあげる要素のあちこちに、いわゆる「性別による、らしさ」は充満している。そしてわたしだって知らないうちにその一部を担って、日々強化しながら生きているともいえるのだもの……。もちろん性別におけるすべての「らしさ」を否定するわけじゃないし(そんなのできるわけない)、そんな必要もないけれど、しかしそういった「らしさ」を疑わないでいる姿勢が、抑圧として機能し、連鎖してゆくのだ。