決して起きてはならない事件だったし、娘を手にかけてしまった母親を擁護することはできない。でも、ホウレン草のくだりは、どうしても他人事とは思えない。「子どもの食にかんすること、体にかんすることは、母親ならできて(やって)あたりまえ」のプレッシャーは、経膣分娩、健やかな成長、離乳食、寝かしつけ、母乳育児……至るところに存在して、24時間、いつだって母親を監視しているのである(もちろん性格にも拠るとは思うけれど)。

渦中にいるときは見えないこと、聞こえないことってある

 「あんなに必死になることなかったのにね」と後でなら笑えるようなことでも、他人がいくら「もっと気軽にやりなよ」と言ってやっても、渦中にいるときは見えないし、聞こえなくなる。それ以上に、「こうしなければならない」という、無意識のうちに母親にすり込まれて課せられたルールは、まるでサブリミナル効果のようなあんばいで、日常のさまざまなレベルであふれているのである。頼りない、小さな命を預かってそれを維持する育児というものは、本当に大変な仕事であり、生き方であると思う。

 でも、人を追い詰めるのも言葉なら、救うのも言葉だ。人の体をかちかちに強ばらせるのも言葉なら、ゆるめるのも言葉だ(もちろん、言葉だけじゃないけれど)。だから、渦中にいる人には届かないかもしれないけれど、それでも「そんなに張りつめなくて、いいよ」「だいじょうぶ、いつかみんな笑い話になるよ」と言葉にして伝えたり、育児の情報として発信することは大切なんじゃないかと思う。

 わたしも、とくに離乳食にかんしては謎の強迫観念におそわれてパニックになったことがあるけれど、でもふっきれて、一日2食とか、ふつうにスーパーに売ってるレトルトのお世話になったら気持ちが本当にラクになりましたよ。あれもこれも美味しそうだな、ってまちがえて介護食を買っちゃったこともあるよ。「この子のぜんぶを完璧に」、「できるのはわたしだけだから、わたしがやらなくちゃ」、「この子のすべての責任はわたしに」なんて、どうか思わないで。厳しい言葉や理想は、適当に流して。でも、みんな、そんなことはもうじゅうぶん、じゅうぶんわかってるんだよね。お母さんはしんどいね。今日もフレシネを飲みながら、そんなことを考えた。

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