あんなに磨いているのに、たしかに息子の口は真っ赤である。す、すみません、と反射的に謝ることしかできず、緊張はさらにつづいた。泣き叫ぶ息子。でも、いちおう虫歯も異常もないと言われてほっとした。気がゆるんで思わず「ああ、よかったです。虫歯があったらどうしようかと思っていたんです」と言ったわたしに、しかし歯科医師は「はあ? 何言ってるんですかお母さん。こんな年で虫歯なんかあったら大変だよ、あるわけないでしょ」と吐き捨てるように言うのである。そのときは、「はい……」と返事するので精一杯だったけれど、これがあとからじわじわ堪えるのである。

満身創痍の母がぶつかる育児プレッシャー

 どうして虫歯があるわけないんだろう。歯が生えている以上、虫歯にだってなることもあるだろう。実際に虫歯になっている1歳の子だってたくさんいる。もちろん自分で磨くことのできない乳幼児〜幼児の虫歯の有無が保護者の責任なのは理解しているけれど、それでも、どうして「虫歯なんかあるわけない」のだろう。あの歯科医師は、虫歯にするようなだらしない母親なんているわけないだろ、と言いたかったのだろうか。医師でさえ、時として、こんなふうに満身創痍の育児の初心者に「できてあたりまえ」を、容赦なくぶつけてくるのである。

 去年、母親が1歳2カ月の娘の首をしめて殺してしまうという事件が起きた。記事によると、彼女はもともと不安定だけれど熱心で几帳面な性格だったらしい。妊娠がわかったときはとてもうれしかった。出産してからはミルクの回数、便の量など、細かに育児ダイアリーをつけ、育児講座にも参加。けれど日に日に育児がプレッシャーとなり、とくに離乳食作りが負担になったのだという。双極性障害という診断も受けた。弁護人とのやりとりの記録にこんなような発言があった。「ホウレン草の繊維を取り除くことを習った。でも、葉の筋を一本一本取るのに半日以上もかかって、くたびれてしまった」。