自分で抱えきれなくなり、SNSでカミングアウト

―― そのとき、お子さんにはがんだと知らせてあったのですか?

久野 最初に告知を受けたのは、子どもの幼稚園入園式の前々日でした。抗がん剤治療をやる間だけ実家に帰ろうと考えていたので、通園バスのルートを変える必要があり、幼稚園の先生には話しました。でも、子どもは当時3歳で、分かっていなかったと思います。「ママは病気になっちゃったから、寝込む日が多くなる」という話はしました。

 翌年、骨への転移が分かってから治療を始めるまでの「猶予」期間、私がうつ状態になってほとんど泣き暮らしていた時期に、子どもは「どうして泣いているの。僕が守ってあげるから大丈夫だよ」と言ってくれました。

―― 石垣島から戻って、結局どのような治療をしたのですか?

実母、息子の3人で行った石垣島にて
実母、息子の3人で行った石垣島にて

久野 「いやです」と言ったものの、抗がん剤治療のほかに手立てはないと思っていたのですが、ふとフェイスブックに自分の病気のことを書くことを思いつきました。それまでは楽しいことしか書いていなかったんです。「石垣島に来ました!」「おいしい物を食べました!」というようなことだけ。

 転移していなかったら隠し通していたかもしれませんが、もう自分だけでは気持ちを抱えきれなくなってしまった。同居して育児を手助けしてくれていた義理の母やだんな以外の、他の人達に助けてもらいたくなって、病気に関する長い文章をフェイスブックに書いたのです

 そうしたら予想外の反響があって、そのなかに「あなたと同じ病気で元気になった人がいる」と千葉にある病院を教えてくれる方がいました。わらにもすがる思いでインターネットで調べたら、研究段階にある「先進医療」の一つで高精度放射線治療でした。保険がきかないので、300万円かかるとある。うーんそんなお金はない、母に「家を売って」と頼めばつくれるのかもしれないけれど、それも何か違う気がして、どうしよう……と思っていたら、やはりフェイスブックで私の病気のことを知った後輩が、治療費のための募金プロジェクトを立ち上げてくれたのです。

 しかも、病院に問い合わせたら、予約は2カ月、3カ月待ちになると言われていたのに、たまたま「来週なら空きがある」と言われたのです。まだお金も集まっていないし、どうしようと思っていたら「お金は後でもいいですからとりあえず来てください」と病院が言ってくれました。結局、病院に行く前々日くらいに後輩の募金活動のおかげで150万円集まりました。残りの150万円は親戚が貸してくれて、千葉のその病院で放射線治療を受けることができました。

がんが7カ所残り、共存していくと覚悟を決めた

―― それで、今のように元気になったのですね。

久野 放射線を照射した直後からピンピンしたわけではないですが、徐々に元気になっていることは実感できました。背骨にいくつかがんがあって、立つのも座るのも寝返りを打つのも痛かったのが、治療していた10日間の後半は背骨を伸ばしても痛くなくなっていました。がんが消えたんです。

 30カ所、すべてのがんが消えることを願っていたのですが、結局今も7カ所は残っているんですよ。でも、「がんが住み着いているのが骨だけなら死なないよ」と先生に言われています。痛みは相変わらずなのですが、もう慣れました。今は地元の病院に転院して、治療を続けています。

 右肩上がりで元気になっている、というわけではなく、イメージとしては「横ばい」という感じです。でも私はそれでいいと思っています。骨が弱くなっていて、大腿骨も骨折したままなのですが、とにかく長く生きられればいい。がんをなくそうという考えも、もうないです。体内にいてもいいけど暴れないでね、という感じです。

石垣島で遊ぶ息子さん
石垣島で遊ぶ息子さん