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 スローターさんは国務省を辞めて、大学教授というフレキシビリティーのある仕事に戻りました。名誉とやりがいとプレッシャーはあるものの、夕食から寝るまでの育児コアタイムを家族で過ごせる、フレキシビリティーのある仕事です。

 日本では男性の国会議員が、同じく議員である妻の出産時に「育児休業を取りたい」という希望を表明しました。それは、議員としての仕事を完全に離れることを意味しません。産後すぐという、家族の絆が形成される最も大事な時期に家庭を優先したいという、ごく自然で人間的な意思表明です。

 このように、人生の一時期に自分の子どもを優先することが、仕事を疎かにするとか、キャリア競争から完全に降りると解釈されてしまう社会のありようが、そもそもおかしいのです。アメリカは管理職に占める女性割合が、既に半分近く、日本とは比べ物にならないほど、女性活躍は進んでいます。ただ、スローターさんが提起した問題は、日本と同じく、家族のケアより外の仕事を上位に置く価値観です。

 要するに、ケアを軽視したまま女性の社会進出を進めても、根本的な問題は解決しない、ということではないでしょうか? 長年、女性が担ってきたケア責任を軽んじて、女性を男性化するような「活躍推進」は持続可能ではないからです。

 今回、育休取得の希望を表明した議員の妻もまた、国会議員でした。日本の女性政治家が少ないことは、国際比較で明らかです。女性議員が出産・育児をしながら活躍を続けるためには、夫婦で育児を分かち合うことが不可欠です。

「コンペティションはお金を生み、ケアは人をつくる」

 スローターさんは著書の中で、この問題を「ケア」と「コンペティション」という枠組みで説明しています。ケアは育児や介護、看護、そして自身の心身をいたわることが含まれます。コンペティションは競争です。仕事には多かれ少なかれ競争がつきものです。「コンペティションはお金を生み、ケアは人をつくる」とスローターさんは書いています。

 彼女はこれを「アメリカ社会の問題」として描きますが、筆者は「日本と全く同じだ」と思いました。人をつくる仕事を軽視する規範を残したまま、女性を外で働かせても“幸せ”の量は増えないでしょう。

 本当に平等な社会では、男性も女性もそのときの自身の希望や家族のニーズに合わせ、仕事を優先したり家族を優先したりできるはずです。本書には、家族のニーズに合わせフレックス制度を使おうとする男性が女性以上にペナルティーを受けることも記されています。パタハラは日本だけの問題ではないのです。

 女性活躍推進法の施行を控え、日本の雇用主は様々な取り組みを始めています。自社の女性従業員が管理職になりたがらない理由を、どうか「女性のやる気の問題」として片づけないでほしい、と思います。もし、管理職が定時で帰って家族と夕食を取るのが当たり前になったら……。きっともっと多くの女性が管理職を目指すでしょう。もし、家族のために時間を使いたいという希望を「仕事に対するやる気のなさ」と批判的に見る社会規範が変わったら、今より多くの女性が「働くこと」を前向きに考えることができるでしょう。

 これを機に、社会全体の価値観を問い直す必要があります。ケアワークによって生み出される「家族」や「絆」が真に大事なことであるのなら、そこに男性が参加していくことを阻む理由はありません。

 男性国会議員の育休と女性活躍はつながっています。また、この話題はケア労働の再評価という、海外でも注目されている問題とつながっているのです。さらに、“Unfinished Business”がビジネス書として、英フィナンシャル・タイムズ紙やマッキンゼーから評価されているということ。要するに、これは経済問題であることを、政策関係者に気づいてほしい――。そう考えた年明けでした。

(撮影/鈴木愛子)