トップ営業として家族の理解を得たものの、悩める小学校時代へ

藤村美里さん
藤村美里さん

―― 夫や祖父母、ベビーシッターなどの手は借りず、育児も家事も全て1人でやっていたのでしょうか?

采都子さん 出産を機に一度は仕事を辞めたものの、「やはり、やり甲斐のある仕事がしたい!」と、主人にお願いしてリクルート勤務を始めたので、最初は本当に大変でした。「ファミレス時代同様、送迎も家事も今まで通り私が担当します」と宣言してしまったのも、失敗でした。

 当初、夫は「一人で家事育児ができない仕事は辞めてほしい」というスタンスだったので、夫婦で分担してというのは難しい状況で。でも、私が社内で評価されるようになったのを見たり、娘が誕生したこともあって、3年が過ぎたころからは少しずつ手を差し伸べてくれるようになりました。今では、食事の支度や家事も積極的に手伝ってくれるようになっています。

 保育園時代、送迎に協力してくれたのは大親友のママ友や同じ保育園のママ達。当時住んでいた江戸川区は、子だくさんの家庭が多く、「4人も5人も一緒よ~」と快くお迎えを引き受けて預かってくれました。一人でポツンと最後のお迎えを待っているより、昔のような地域コミュニティーに育ててもらったのは本当にありがたかったですね。

 息子の送迎や食事、ときにはお風呂までヘルプしてくれた大親友のママ友が癌で亡くなったときは、「人生って突然終わってしまうんだ……」とひどく落ち込んで、「私の働き方やスタンスってどうなんだろう」と思ったこともあります。

 彼女は、私がファミレスで早朝バイトを始めたときも、一番乗りでお子さんと一緒にお客さんとして駆けつけてくれた。「結局、早朝バイトしかなかったよ~」と落ち込み気味な私を、「ここからトコちゃんの快進撃が始まるんじゃない」と言ってくれた。あの満面の笑みを今でも忘れられません。いつも私を誇りに思って、ことあるごとに助けてくれました。

拓巳くん ともちゃん(采都子さんのママ友)のことはよく覚えています。同じ保育園に通う、自分の娘のクラスに行くよりも先に、まず僕を迎えに来てくれたのが本当にうれしかった。母のお迎えのときは、僕がほとんどいつも最後の一人だったから(苦笑)。深夜残業が続く母に「とこちゃんの働き方はよくない。あんな働き方をしてちゃ、早死にしちゃうわよ」なんて言っていたのに……。

采都子さん 息子が小学校1年生の夏に、夫の実家の近所に引っ越し、私の子連れ出勤もだいぶ減りました。義母の存在は本当にありがたく、今でも本当にお世話になっています。

長男の拓巳くん
長男の拓巳くん

拓巳くん おばあちゃんもひいおばあちゃんも本当によくしてくれたけど、(母親が仕事で遅いのは)やっぱり寂しかった。特に小学校時代の友人達のお母さんは専業主婦をしている方ばかりだったので、「どうして自分だけ……」という気持ちが常にありました。保護者会もうちだけ来てもらえないことも多かったですし。その影響なのか、泊まり行事になるとやたらホームシックになったことも。あのころの自分は“心に傷を負った少年”だったと思います(笑)。

采都子さん その時期(小学校3年生)に下の娘を妊娠したのですが、ある時、息子と歩いていたときに、いわゆるふんわりしたマタニティードレスを着た妊婦さんとすれ違った瞬間、「ママもああいう服を着たほうがいいよ」と言われたことがありました。私はジャケットにタイトスカートで一見妊婦さんとは見えないスタイル。きっと息子は「なんで普通のお母さんみたいじゃないのかな」と思うことも多かったのだと思います。

 そのせいか、息子は「恭ちゃん(妹)は自分が守らなくちゃ」という気持ちがものすごく強くなったのだと思います。妹がケガや病気で通院するときは必ず付き添うし、保育園の入園式から遠足、運動会、お楽しみ会と、ほぼフル参加で私と一緒に行事に参加していました。保育園では“妹思いのお兄ちゃん”でかなり有名でした。

僕が感じたような寂しい思いを、妹にはさせたくない

拓巳くん 「自分が感じたような寂しい思いを妹にはさせたくない」という気持ちが強くありましたね。小学校時代は頻繁に学校へ来る親が羨ましかったですから。妹とは9歳も離れていたので「大きいお兄ちゃんが保育参観とかに来るのはうれしいだろうな」とも思いましたし。思春期はあまり家族と一緒にいたくないという時期でしたが、それでも妹の行事には必ず参加していました。