インタビューを動画でご覧いただけます(3分22秒)
出産退職後、再出発はファミレスのパートからだった
藤村 20代後半で第一子の出産時に退職していて、しばらく復帰できず、苦労されたと聞きました。
采都子さん 当時、家の近くの保育園は1500人待ち。30歳で、小さい子を抱えた母親を雇ってくれる会社はありませんでした。正社員はもちろん契約社員でも難しい状況で、仕事を再開しようと思ったものの、本当に見つからなくて。結局、出産後のキャリア再開は、ファミレスでの早朝パートでした。それしか選択肢が無かったんです。
「出産前は最前線でバリバリ働いていたのに、もう独身のころのように仕事で活躍するのは難しいんだ……」と現実を突き付けられ、悔しい思いもありながら、内容はともかく仕事をして収入を得られたことがすごくうれしかったのを覚えています。そして、心に決めました。「絶対にここから再出発する」と。その後、リクルートに入社し、新規事業ホットペッパーの創刊にかかわることになりました。
当時は、クーポン文化という新しい価値を作ることに本当にやり甲斐を感じていましたし、何より頑張って結果を出せば社内で認めてもらえるというリクルートの社風が、私にはぴったりでした。ホットペッパー事業部に入社年から3年連続で年間MVP賞を受賞し、事業初の“殿堂入り営業”として表彰されたことも。トータルで11年間勤めました。
「保育園のお迎えに行ってから子連れで再出社」のリクルート時代
―― フルパワーで働いていた時期は、そのリクルート入社後だと思うのですが、お子さんが何歳くらいのときになりますか?
采都子さん リクルートでホットペッパー事業の立ち上げをやっていたのは、長男が年少さんから小学校低学年くらいのころ。保育園に通わせてはいたものの、営業や入稿の締め切りの時期は、お迎えの時間までに仕事が終わらないことがほとんどで、一度お迎えに行ってから子連れで会社に戻ることも頻繁にありました。職場は既婚者も子育てママも私一人で、9割が独身女子という状態でしたが、ありがたいことに編集長をはじめ、同僚達は息子を「タッキー、タッキー」と呼んでかわいがってくれました。
拓巳くん 誰もいない会議室でホワイトボードに絵を描いたり、本を読んだりしていたのを覚えています。数分おきに色々な人が様子を見に来てくれて「大丈夫です!」と母に報告していました。おかげで、1人でも色々なアイデアを出したりしながら遊ぶことができるようになりましたし、大人に対しての恐怖心みたいなものも持ったことがないですね。
采都子さん コピー機が大好きで、よく自分の顔をコピーしていました。翌日職場に行くと、息子の顔が印刷されたミスコピーの山が……(笑)。
ときには、緊張感漂う月末の営業会議に、風邪引きで保育園に預けられなかった息子を連れて参加したことも。全員がうつむき加減の重たい雰囲気の中、窓の外に飛行機や新幹線を見つけるたびに「あっ!! 飛行機~! ぶーーーん!」と叫んだりして「タッキーは癒しだよね」なんて1コマもありました。
ホットペッパーの担当エリアは、個人的に小さいころから大好きだった銀座。だから仕事も本当に楽しくて。取材でお店を回る時に、一緒に連れて行くことも少なくありませんでした。私一人で行くより、お店の方の反応が柔らかくなったりもして。「ちょっと預かってあげようか」と見てくださる社長さんや、「タッキーだけでおいでよ」など、温かい言葉をかけてくださる方にも恵まれました。
リクルートの風土は、とにかく結果にシビアでしたし、目標をクリアしても、またさらに高い山が見えてくる……という緊張感のある世界でした。でも、仕事が見つからず、早朝パートを経て出合ったやり甲斐のある仕事だったので、子どもがいることを理由に、目標達成をあきらめたくありませんでした。何よりお客様に「ありがとう」と言っていただけることが本当にうれしくて。
ですから、親として素晴らしいことをしてきたとは言えません。インフルエンザの予防接種には連れていかないくせに「わが家はインフルエンザ禁止」と言い放ち、風邪を引いたと聞けば「自己責任だからね」と睨みつけるという、とんでもない親でした。
大好きな仕事をただ楽しむだけでなく、結果にとことんこだわり続けたことは、「働く」ということを教えるという意味では、親の役割を果たせたと言えるのかもしれませんが。
拓巳くん 本当にひどくて。実は具合が悪いときでも、怒られるのが怖くてなかなか言い出せなかったのを覚えてます。しかも、中2のころ、担任の先生に「吉田、予防接種が全部済んでない」と呼び出される始末でした(苦笑)。