内なる反応をだだ漏れにしてくれるな

 ほかには、ずいぶんまえにセックスワーカーだった女性が婦人科系の病気にかかったというニュースにまつわることも思いだす。「今まで好き勝手にやってきたんだから当然だよね」とか「大事なところを粗末にしてきたんだから、当然の報いだ」みたいな反応をネットでいくつも目にした。おなじみの、「いいクスリになっただろう」的な、上から目線の制裁趣味だ。あたりまえだけれど、「当然の報い」なんかじゃない。そんなものは存在しない。

 いくつか例に挙げた、こうした悪趣味全般を支えているのは、言うまでもなく発言者のなかにあるさもしさだ。これらはすべて、原理的におなじ問題をはらんでいると思う。

 他人の外見や、美醜や、職能以外の要素についてあらゆる感想をもつべきでないなんて、そんなことを言っているわけじゃない。そんなの不可能だ。男女を問わず、誰かを見て「きれいだな」とか「かっこいいな」と思うこともあれば、その逆のこともまたあるだろう。

 それは反応だ。ただ、オフィシャルの場ではその内なる反応を、せめてだだ漏れにはしてくれるなという、これはそういう話なのである。その場と、そこにいる人たちとの関係性において、ふさわしい話、ふさわしくない話というものがあって、それを気にかけて他人と接するのって、ふつうのことじゃないだろうか。そのときどきに、適切か適切じゃないかを考えてそれぞれが発言するのは、ふつうのことじゃないだろうか。しかしこれが、なかなか通じないときがある。そんなことをあれこれ考えていると、今夜もまたフレシネが沁みわたるのだった……。


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