子育てから仕事から夫婦関係から社会問題まで、働く母とはなんと多くの顔を持って生きていることだろう。最愛の息子を育てながら小説家として活躍する川上未映子さんが、素敵も嘆きもぜんぶ詰め込んだ日々を全16回にわたりDUAL読者にお届けします。第6回のテーマは、「セクハラや痴漢にまつわる反応」についてです。


 ああ、言葉は通じても、話が通じないこの感じ……そんなの生きていれば誰だって感じることだけど、そういうことってしょうがないのかしょうがなくないのか、今日もフレシネを飲んで考えた。

 何回かまえに書いた『女というだけで加齢すらできない』というコラムが思いがけずたくさんの人に読んでもらうことができて、さまざまな感想をネットで拝見した。そのほとんどは共感を示すものだったり、そこからさらに問題提起につながる生産的なものが多かったのだけれど、なかには「なぜ、そうなるのだ」と首をひねるしかないようなものもいくつかあって、今回はそれについて思うところを書いてみたい。

痴漢の話と似ている

 まずは「『男』をひとくくりにするな」というもの。
 読んでもらえばわかるけれど、コラムでは、まずわたしの個人的な体験を書いている。そのとき、問題の発言をしたのがたまたま男性だったからその話のなかでは男女の対立が目立つけれど、しかしそのあとできちんと「もちろんこれは男性に限ったことではない」と断っている。女性でもオフィシャルの場でデリカシーのない発言をする人はたくさんいるし、男性でわたしとおなじような体験をして問題を共有してくださるかたも無数にいるだろう。『女というだけで加齢すらできない』というタイトルは編集部がつけたものだけれど、ここで使われている『女』という言葉は、女性としてのわたしの実感と、ある状況におけるひとつの立場を示したものだ。ここでの『女』の立場について、実感をもって理解してくれる男性も、たくさんいるのだ。

 それにしてもこの反応って何かに似てるなと思ったら、痴漢の話だよ。

 たとえば誰かが痴漢被害の話をする。すると、「わたしは痴漢したことがないんだから、わたしには関係ない話」、「男が全員痴漢するみたいな言い方はやめろ。俺は痴漢しないんだから、不愉快だ」的な反応をする人が、一定数いるのだ。いったいどうしたことだろう。まるで「自分は痴漢なんかしないんだから、社会には痴漢なんか存在しないのだ」とでも言うようなあんばいなのだ。

 現実に起きている一般的な問題について話せば個人に矮小化した話として受け取り、個人的な話をすれば一般的な問題としてフレームアップして受け取る。もちろんそのふたつは重なる部分も多いけれど、ゆえにこのあたりは、よくよく注意が必要だ。