で、わたしの息子にたいする不安はそこで、どうも、わたしは息子にも「ヨイトマケの唄」を知ってもらいたい、知るべきだと強く思っているフシがあるのだ。

 これはもちろん、自分や母の送ってきた人生を肯定したい欲望とは無縁ではないだろう。しかしそれとはべつに、やっぱりこの世界には「ヨイトマケの唄」があるのだということを、知っておいてほしいのだ。息子に苦労してほしいわけでも、感謝してほしいわけでも、泣いてほしいわけでも、子どものために犠牲になりたいわけでもなんでもないけれど、そのことだけは知っておいてもらわないと困る、という気持ちが強くある。

 それは人間社会の真理のひとつであると思うからだ。しかしそれは、教えてわかるものではない。そして彼がわたしの働く姿からそれを感じ取るのはもしかしたら不可能なんじゃないか、という、これはそういう不安なのだった。

 なぜなら、わたしの仕事は、その8割が自己実現だから。


自己実現と自己犠牲のあいだで母は悩むのだよ

 もちろん生きていくため、生活するためということもあるけれど、基本的には自分のために書き(読者のために、というのも、もちろんここに含まれる)、好きでやっている仕事なのだ。

 そんなわたしの姿から、彼はいったい何を学ぶことができるんだろう。おりにふれ、そんなことを思ってしまう。決してラクな仕事ではないし、明日書けなくなったら路頭に迷うし、独特の困難とプレッシャーを伴う仕事ではある。労働である。けれども、やっぱり根本的にこれらが自分のためにあるすべてだという事実が、どこかわたしを後ろめたい気持ちにさせるのだと思う。

「人の役に立つ人になれ」とは思わないけれど、でもやっぱり「人のために何かできるやさしい人になってほしい」と思ってしまうのは、わたしのつまらない傾向なのだろうか。これはたんなる、自分の経験を通じて知った「自己犠牲」を美化しているだけ、ということに、なってしまうのだろうか。あるいは、息子と自分のあいだに、絶対的に共通する観念がほしいだけなのだろうか。

 その子にとって、本当に大事なことを伝えられているのかどうか。それを教えようとしている自分が本当にそれについてわかっているかどうかも定かじゃないのにな、と自信がすっとなくなって、もっと大きな不安がやってくる。

 まあ、実際はそんなこと言いながらも「早く服着なさい!」「何回言ったらわかるの!」「いい加減にしなさい!」とか言いながら追いかけ回して時間が過ぎてゆくのに息子もわたしも精一杯なのだけど。今日もみなさまおつかれさまでしたと言いながらフレシネを飲んで、やっぱり「ヨイトマケの唄」をちょっとだけ口ずさんだりして。生きているといろいろあるけど、みなさま、ハッピークリスマス!


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