えっ、と思って袋から出すと、それはあの白いセーターだった。

 うれしいという気持ちと、あのとき見ていてくれたんだというちょっと恥ずかしい気持ち、それから母が無理をしたんじゃないか、困らせたんじゃないかという気持ちでわたしの胸は渦巻いて、涙があとからあとから流れでて、なかなか止まらなかった。

 セーターを着て喜んでいるわたしを見て、本当にうれしそうだった母の顔。忘れられないなあ。それから本当にすり切れるまでそのセーターを着てわたしは子ども時代を過ごしたのだった。

 クリスマスといえば、わたしはこのときのことを思いだすんですよね、何もかもが一瞬で甦るこの感じ……。

 それから時は流れに流れ、わたしは母親になった。このシーズンになると、うちの息子はどうだろうか……つい、そんなことを考えてしまう。

 一人っ子ということもあり、そして親がまあまあ高齢ということもあって甘いところもあり、基本的に欲しいものはいつでも手に入る状態なのだ。今のところは幸い、あれもこれも欲しいという性格ではないみたいなので直視せずに済んでいるけれど、わたしの体験と彼の体験のギャップを思うと、なんともいえない不安みたいなものがよぎるのだ。これっていったい、なんなんだろう……。

自分だけの「ヨイトマケの唄」

 要するに、わたしは自分のこの思い出を、「いい話だし、なにかしらの、いい体験」だと思っているんですよね。これが基本にあるんですよね。

 で、なんでそう思うかというと、教科書的にいえば、感謝の気持ちとか、本当に何かが欲しいと思う気持ちとか、母が自分を思ってくれた気持ちとか、そういうものを知ることができてやっぱりよかったな、とそう自分自身が感じているからだと思う。

 自分たちのために母が必死に働いてきた姿を見てきたせいで、今でもわたしが母親を大事に思う気持ちにはちょっと説明できないくらいのものがある。つまり自分だけの「ヨイトマケの唄」が、いつも、いつでも鳴り響いているのである……。