4年目、5年目、そして6年目

 加寿代ちゃんの指文字指導は、4年目も続けられることになった。

 4年目、加寿代ちゃんは、指文字で「好き」「嫌い」を表現できるようになった。

 5年目、加寿代ちゃんは職員側からの「OK」「ダメ」の意思がわかるようになった。

 おそらく、加寿代ちゃんはここまできてようやく、自分の気持ちを他人に理解してもらえる喜びを知り、自分がこの世に存在していることを実感しただろう。闇に閉ざされていた彼女の世界に、初めて光が射し込んだ瞬間だった。

 人は、この世で自分の居場所を確認したときに初めて、人間を自覚する。そのためには、親をはじめとする周囲の大人たちの、「ここにいていいんだよ」という愛情に満ちた触れ合いが不可欠だ。

 加寿代ちゃんは今ようやく、自分という存在を自覚し、新たな発達の扉を開いた。この扉は、M先生の絶対にあきらめない熱い思いがなければ、決して開かれることはなかっただろう

 6年目、加寿代ちゃんは便をまわりになすりつけることなく、トイレできちんとすることができるようになっていた。

 その年の秋、施設の中で行われた演芸会で、職員らがいろいろな出し物を演じた。観客席に座る加寿代ちゃんの隣に、ぴったりと寄り添って手をつなぐM先生。加寿代ちゃんには、舞台から奏でられる音楽や歓声は聞こえない。しかし、加寿代ちゃんの手は、ずっとM先生の手をぽんぽんと優しく叩いていた。

 後ろから2人の背中を見ていた私には、2人が本当の母娘のように見えた。

(イメージ写真/鈴木愛子)

緒方高司
1960年大阪生まれ。1982年東京大学工学部卒業。1984年同大学院工学系研究科土木工学専門課程を中退し、同年和歌山県立医科大学入学。卒業後、同大学小児科学教室入局。有田市民病院、和歌山県立医科大学付属病院小児科助手等を経て、1996年和歌山県南紀福祉センター(重症心身障害児施設)に着任。同附属病院小児科医長を務める。2001年大阪府内にて医院を開業、現在に至る。

『君がここにいるということ』
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