かろうじて専門的に話ができる分野がこれしかないっていうのもあるけれど、ついついお酒もすすんでしまう。

 たとえば子どもが生まれてからはほとんど行かなくなったけれど、いわゆる「文壇バー」では、夜な夜な編集者とか作家とかがお酒を飲んで、互いの文学論を戦わせてつかみあったり水をかけあったり罵倒しあったりということもあったようで(幸い、わたしは見たことないけれど)、想像するだけで「激烈に面倒だなぁ……」と思わず白目になってしまうよ(そうじゃないときは、とっても素敵空間です)。

つい熱くなって、文学の可能性を壮大に

 そういう感じとはまあ、遠い(はず)だけれど、しかしわたしも文芸業界の人たちとお酒を飲んで話をすると、これがどうも……自分で思っている以上に熱くなって、理想論をえんえんとぶちあげる癖があるみたいで、生きてゆけないくらいに恥ずかしい。

 若いころと違って、記憶がなくなるまで飲む、ということはないから、だいたいのことはちゃんと覚えているのだ。これがまた、猛烈につらい。

 小説のささやかな「てにをは」の話からはじまって、8時間も経つころには「文学の可能性」みたいな、なぜなのか、知らないうちになんか壮大な話になっていて、ああもう、思いだすだけでしゅっと消滅してしまいたくなる。それで翌日、同席していた若い編集者から「昨晩は熱いお話、ありがとうございました!!」みたいな追い討ちメールが来ると、まるっと死んでしまいたくなる。天井知らずの恥ずかしさと自己嫌悪のダメージで、それから3日間は暗い気持ちがべっとりと張りついたまま過ごすことになるのだ……。みなさまも、こんなことありませんか……。

 毎日、小説やエッセイを書いていても、日ごろは子どもを中心にした生活からか、一気に何かがあふれでてしまうのだろうか……。それが涙であれなんであれ、なにかがあふれるさまを見られるのも恥ずかしいし、なによりも、そんなのを見せられるのは災難である。もう、みんなどんな気持ちで酔っ払いがえんえん(きっとおそらく同じことをくりかえしているはず)文学について語るのを聞いていたんだろう……。「あーはいはい」ってな感じで流してくれていたらいいけれど(そりゃ流してるだろうけれど)いずれにしてもそのときのわたし、相当に痛寒い存在であるのに違いない。その場を俯瞰して頭のなかで再現してみると、おそろしさで体が震える。