あるパーティで再会した50代の男性作家なんか、
「わー川上さん、このあいだ雑誌で写真見たときは『劣化したな』って思ったんだけど、今日はどうしたの、持ち直してるね」とか「ほらみんな、川上さんを見習って、念入りにお化粧しないと」とか、ほかの女性作家にたいしても平気で言うのである。こんなの作家じゃなくて、ただのセクハラ親父である(本人にもちゃんと指摘した)。
子どもの頃から女子をブスだのなんだの好き勝手言って偉そうに評価を下すことに慣れきって、そして女子は男子からスカートめくりされるのがうれしいんだろ的愚かな勘違いを重ねることが許されてきた、これはそんな環境が生んだ無知なのである。
おばさんにならないと手に入らない「ラク」
40代、50代の女性が「おばさんになってラクになった」というのを、よく見聞きする。わたしはそれを聞くたびに──もちろんラクになるのは素晴らしいことだけれど、しかしその一方で、「ラクになんか、なってやらなくてもいいではないか」みたいな、そんな気持ちになることもある。
なんで、ただ生きているだけの女性が、しんどい世界から這々の体で逃げてきたようなかたちでもって「おばさんになって」安心なんかしなければならないのだ。
なんでそういうかたちで、自然さを得なければならないのだ。
もちろん、その「ラク」のなかには対男性以外のものも多く含まれる。けれど、女性の人生に、おばさんにならないうちからラクに生きるための選択肢があって、当然じゃないのか。なんでおばさんになってから、解放されなきゃならないのだ。そんなことを考えていると、今日もフレシネのボトルが空になってゆくのだった。
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