「わが子を世界に羽ばたく、グローバルリーダーに育てたい」。そんなパパ&ママ達の野望をよく耳にします。グローバルで通用する力を子どもにどう養えばいいのか。翻って、グローバルでご活躍中のビジネスエグゼクティブは子ども時代にどんな教育を受けてきたのでしょうか。リーダーの資質はどこで育まれたのでしょうか。親の成功体験は子どもにどんな影響を及ぼすものなのでしょうか。パパ&ママが気になる素朴な疑問を、日ごろからエグゼクティブビジネスリーダーと接する機会の多い阪部哲也さんが、2児のパパとして、先輩パパにインタビューしていきます。前回記事「“5児のパパ建築士”がケニア滞在で教わったこと」に引き続き、設計から監理、施工を請け負う会社ジー・エー・ファクトリー株式会社代表取締役で、プライベートでは5児のパパである、尾崎美都夫さんに伺いました。

尾崎美都夫さん

ジー・エー・ファクトリー株式会社代表取締役/一級建築士。東京職業訓練短期大学校建築科卒業後、株式会社藤和(スタジオジブリ・二馬力などの施工実績あり)に入社。主に設計業務に従事。在籍中、1991年志願して青年海外協力隊員としてケニア共和国の公共事業省に配属。99年に独立してジー・エー・ファクトリー株式会社設立。リクルートSUUMO主催の読者ランキングでは毎回高い顧客満足度を記録しており、住宅リフォーム王としてTV出演も。

骨太な精神力を培った、子ども時代の原風景とは

ジー・エー・ファクトリー株式会社代表取締役の尾崎美都夫さん
ジー・エー・ファクトリー株式会社代表取締役の尾崎美都夫さん

阪部 この連載は毎回「グローバル」をテーマにしています。そもそも「グローバル」を志したときに、いきなり「ケニアへ行ってみよう」とは普通はなかなか考えないものです。さらに言えば、尾崎さんには「ケニアに行こうか、どうしようか」などという、凡人にありがちな逡巡や葛藤がなく、スパッと決めていらっしゃいました。

 こういう決断ができるということは、恐らく尾崎さん自身が「自分は何者であるか」というアイデンティティーを若いころからしっかりお持ちだった証しではないかと受け止めたのですが……。果たしてどんな教育を受けたら、尾崎さんのように「骨太」な精神が養われるのか、とても興味があります。ご両親との関係など、尾崎さんの子ども時代の話をお聞かせください。

尾崎さん(以下、敬称略) 私には兄と妹がいます。私達三人兄妹は子どものころ、親からこんなことを言われて育ちました。

 「お父さんもお母さんも、おまえ達に勉強を教えてやれるのは小学校までだぞ」

 私の父も母も中卒です。「小学校を卒業したら自分で勉強するしかないぞ。勉強しなくて困るのはおまえ達であって、お父さんもお母さんも困らないから」と。

 八王子の山村で祖父母と共に暮らし、父は林業を営み、祖父は炭焼き職人でした。自給自足に近い貧しい生活でしたね。父は山主さんから依頼を受けて植林をしたり、木々の手入れをしたり、伐採をしたりしていましたが、そこは常に事故やけがと隣り合わせの現場でした。

 例えば架線といって山にワイヤーを張り、ロープウエーのような設備を仮設して、切った木を麓の道のある場所まで降ろさなければなりません。ある日、その作業中に滑車が外れてしまい、その滑車が飛んできて額に直撃し、親父の額がパックリ割れてしまったことがありました。

 ヘルメットをかぶっていたので一命は取り留めましたが、打ち所が悪ければ即死でもおかしくなかった。また、木を切るチェーンソーでうっかり足を切ってしまったり、振り上げたおので太い血管を切って、血をボタボタ流しながらバイクで帰宅したりする親父の姿を見て育ちました。「勉強しろ」と言われたことはありませんでしたが、厳しい父親でしたね。

阪部 それは家族の営みの中での住人としての役割を果たせ、という点で厳しかったということですか?

尾崎 そうですね。私達子どもも、風呂を沸かしたり、まきを割ったり、雨戸を閉めてしっかり戸締まりをする、とか。

設計士の道を選んだのは、茅ぶき屋根の家に住んでいたコンプレックスから

阪部 尾崎さんが「設計士」という職業を選ばれた背景には、お父様と同じ「木」に関わる仕事だったから、というのもあるのでしょうか?

尾崎 恐らくコンプレックスでしょうね。当時のわが家は茅ぶき屋根の家でした。今では古民家などと言われて、貴重品扱いされていますが……。「いい家を造りたいな」と思うようになったのは高校生のころでしょうか。運送屋のアルバイトで電気製品を市内の住宅街へ搬入に行っていたんです。新しい家に冷蔵庫や洗濯機を運び入れながら「すてきだな、こんな住まい方があるのか」と思ったりして。わが家とのギャップを見せつけられたことがきっかけだったと思います。