「そんなことでは仕事が来ませんよ!」と叱られた

―― 明理さんが照明デザイナーになるとお母さんは思ってもなかったとのことですが、職業は何であれ、自立して働くことは大前提として家庭の教育にありましたか?

石井 そうですね。学校で部活動を選ぶときも、「柔道ならば将来海外に留学して万が一仕送りが途絶えても、道場でアルバイトできる。そのほうが皿洗いするよりも絶対に時給は高いわよ」と言われて、「なるほどねえ」と思いました。実務的というか実践的なアドバイスをもらいました。

 小さいころに「そんなことでは将来、仕事が来ませんよ!」と母に怒られたこともありました。子どもだった当時はポカンとしてしまったので、余計によく覚えています。今になってみればたぶん、母自身がそういうことを考えていた時期だったんでしょうね。でも子どもに向かって「そんなことでは仕事が来ませんよ」って……。今では笑い話です。いったい何考えていたんでしょうね?(笑)

 いずれにせよ、私が自立して働くことは大前提でした。私の祖父は戦争で亡くなったので、祖母は一人で子ども3人育てました。そんななか、母はとにかく自立しなくてはいけないと子どものときからずっと思って育ったので、娘も当然、自立できるように育てなくてはと思ったのでしょうね。

―― しかも、海外に行くということも前提だったのですか?

石井 そうですね、母自身は若いころにフィンランドとドイツに行っていましたし、父もドイツやアメリカで教え、研究していた時期があります。ですので、海外で勉強するのは当然、という空気が家の中にはありました。私自身、中学くらいから海外に行きたくて行きたくて、でも中学ではダメと言われて、高校でもダメと言われて、大学でもダメと言われて、ようやく大学院に入ったのでさっさと自分で留学に出てしまいました。

「日本人としての根っこ」を大切にした父

―― 海外に行くのは当然、という家庭だったのに、留学はダメだったのですか?

石井 夏休みを利用した短期留学などは、ほぼ毎年させてもらっていました。けれど、例えば高校から海外に出てしまうと日本人としての根っこがなくなるから、大学受験まではちゃんと日本でしろと、父が言ったのです。そして大学に入ったら、今度はちゃんと卒業論文を出すように、と。父は大学で教えていましたから、そういうことは厳しくて、母ももっともだと思ったのでしょうね。

―― 教育の問題一つとってもお父さんとお母さんは同等で意見を言ったのですか?

石井 高校まで私が通ったのは母の母校でもありましたから、学校については母の意見が強かったですが、父も教育者でしたから同等な感じでした。そして私も、早い時期から家では1票持っていました。割と私の意見も尊重してくれて、デモクラシーといいますか(笑)。

すらりと背が高い明理さん、小学校の卒業時にはすでに167cmあったという。背筋がピンと伸びているのは日ごろ習っているダンス効果
すらりと背が高い明理さん、小学校の卒業時にはすでに167cmあったという。背筋がピンと伸びているのは日ごろ習っているダンス効果