『ぐりとぐら』や『いやいやえん』など、数多くの童話で知られる中川李枝子さんが、働くママやパパの悩みに答える『ママ、もっと自信を持って!』。今回は特別編です。終戦を小学3年生で迎えた中川さんは「9年間の義務教育では、軍国主義教育と民主主義教育をちょうど半分ずつ受けた」というご経験の持ち主。中川さんの記憶を通して「子どもたちにとっての戦争」についてお話を聞きました。

小学生には何が起きているのか理解できなかった

――太平洋戦争が始まったとき中川さんは6歳。東京で暮らされていました。小学校に入学したばかりの少女にとって、戦争はどういうものでしたか?

 何も分からないのよ。「見ざる、聞かざる、言わざる」の時代でもあったわけで、小学校低学年の私には、何で戦争をしているのかはもちろん、何が起きているのかは理解できていませんでした。

 ただただ、私たちが学校で勉強ができるのは兵隊さんのおかげ。兵隊さんがお国のために戦ってくれているからだと、校長先生が朝礼のたび、毎日、話してくれました。「今日も学校に行けるのは 兵隊さんのおかげです」と『兵隊さんよありがたう』を大きな声で合唱していましたね。

 偉い兵隊さんは、戦地で戦っているの。戦地というのは日本以外のあちこちの場所で、そこで兵隊さんは一生懸命戦い、成果を上げている。敵をやっつけていて、いつも勝利していました。校長先生の話では、ね。

 日本は大勝している。では、なぜ空襲に備えるのか。それは日本に潜むスパイの仕業だと聞いていました。英米人や外国語を話す人、外国の本を読む人は、すべて怪しい。見つけたら報告しなさいって。

 アメリカ人やイギリス人は野蛮なの、「鬼畜米英」ね。一方で、アジアの人はお友達で、きょうだいだから仲良くしましょうと。さらには、同じアジアの子でも日本の子は特別な存在で神の子だから、世界一の子どもだから、みなさんは立派な振る舞いをすることを忘れてはいけませんとも教わりました。

 当時は、そのまま素直に聞いていましたが、少国民意識を植えつけられていたのですね。

――学校に行くのが嫌にはならなかったのですか?

 学校は大好きです。子どもの私たちが過ごすことを許されている居場所は、学校と自宅だけでした。家から学校へは歩いて5分。外遊びはもちろん、行き帰りの道草も禁止。家を出られるのは唯一学校に行くときだけ。友達にも会えるから楽しい場所でした。

 そうはいっても、空襲警報のサイレンが鳴ればすぐに家に帰らなくちゃいけない。警報解除のサイレンを待ちながら、家でじっとするしかありませんでした。いつ空襲が起きるか分からないし、親たちはいつも不安な顔をしていた。不穏な感じを強く受け取っていました。