思いがけない形で周囲の方のサポートや幸運に恵まれた

羽生 10代に出会った夢とはどういうものだったんですか?

行正 小学生の頃から洋楽や映画が大好きで、ABBAにハマっていました。でも、とにかく勉強ができなくて。地元・福岡の高校で、「ビリギャル」ならぬ「ただのビリ」(笑)。父親は「勉強がすかんなら、やらんでいい」という方針で、「大学には行かんでいい。何でもいいから半径5キロ以内で一番になれる特技を磨いて仕事にしろ」と言われました。お金に余裕もなかったんだと思います。

 それで高校を出たら働かないといけないということになって、職業にできそうな得意分野を消去法で探していったら「英語」が残ったんです。それも英語の先生に「あなたは文法はダメだけど、発音はまあまあいいね」って言ってもらえたというだけの理由です。

 「職業にできるほどに磨くには留学くらいしないといけない」と口にしたら、父が「行って来い」と。ただし、9カ月間の期間限定。食べていくためにものにしなければいけないので、必死になって勉強しました。私は17歳(=人生時計:午前6時前)で、「英語の先生になる」と将来の職業を決めていたということです。

羽生 結果としては、大人になってから進んできた道は、当時の目標と大きく変わったわけですね。

行正 思いがけない形で周囲の方のサポートや幸運に恵まれたという経緯があるんです。私は「この留学が自分にとって最後の教育機会になる」と思っていたから、友達が遊んでいるのを横目に寝る間を惜しんで勉強漬けの日々。自然と成績もついてきて、留学期間が終わる頃には、ホストファミリーから「英語教師になるなら、学歴はあったほうが有利。短大(カレッジ)に進学すれば?」と薦められました。経済的理由で行けないと伝えると、「学費と生活費なら援助してあげる。その代わり、平日5日間の家族の食事を作ってよ」と、ありがたいオファーをいただいて。

 そして進学できた短大を卒業する頃に、今度は先生から「大学の編入試験にチャレンジしたら?」と薦められました。アメリカの大学入試は願書申請制ですが、当時は1校につき25ドルの受験料が必要でした。1カ月のお小遣い100ドルの中でやりくりしていた私にとってはとても高い金額!事情を話すと先生が100ドル札を渡してくれて、「これで5校受けなさい」と。

 そして何校か合格をいただいて、その中で特に評判がよかったのはカリフォルニア大学バークレイ校。それでも入学金がないから諦めるしかないだろうなと父親に相談したら、「そういう金なら出せる」と、思わぬ反応で背中を押してくれたんです。

羽生 ここぞという時には教育費を惜しまない。お父様…、ウワテですね。

行正 本当に。きっと資産を切り崩して用意してくれたのだと思いますが、ありがたかったですね。両親の「子どもの教育に関して、いつまでも親が面倒を見る前提で甘やかさない」という姿勢は尊敬しますし、私も母となった今、そのように子どもに伝えています。「高校まで公立で大学に進学するか、私立の中高に進んで就職するか、どちらかを選んでね。そこから先の教育は、奨学金を得るなどして自分の力で頑張ってね」と。