民間人校長の山口照美さんが働く大阪市立敷津小学校から歩いて2分のところにある大阪中華学校。ここで校長を務めるのが陳雪霞さん。台湾で教師として働いていた彼女は結婚のために日本へやってきました。専業主婦として働いていた陳さんが女性校長になるまで、どのような道のりを歩んできたのでしょうか。

 私の勤める敷津小学校の校区には、徒歩2分のところに大阪中華学校がある。幼稚園から中学部まであり、多国籍の児童が通う。着任後すぐに挨拶に行き、台湾出身の女性校長であることに驚き、嬉しくも思った。日本語と中国語を操り、成長する私学の運営を行い、台湾と日本をつなぐ立場でもある。優しさと強さを兼ね備えた彼女が、どのような経緯で女性校長となったのか、以前から聞きたかった。今日は、大阪中華学校を率いる陳雪霞(ちん・せっか)校長先生のインタビューをお届けしたい。

もう一度働ける、それは「空が見えた」ような気持ち

――どのような経緯で、台湾から日本に来られたのですか? 

陳雪霞さん(以下、敬称略) 私は台湾の師範大学を出ています。師範大学を出ると、5年は恩返しとして教師をしなくてはなりません。ある学校で勤めていたところ、校長先生から「日本に留学した先で家庭を持った人の息子に、台湾人のお嫁さんを探している人がいる。お見合いしてみないか」と強く勧められました。お見合いした後、その家のお爺さんが私のことをぜひほしいと、毎日実家にお願いに来られたんです。母が面倒くさくなっちゃったんでしょうね。私も深く考えないままに結婚の話が決まり、日本の尼崎市へ来ることになりました。お姑さんは日本の方で、夫も中国語は話せませんでした。

大阪中華学校の校長室にて。陳先生は、初めてお会いした時から気さくに話しかけてくれた。学校経営は子ども達の命と未来を預かる仕事。その重責に加え、台湾と日本の交流の仲立ちの役目をこなす日々だ。
大阪中華学校の校長室にて。陳先生は、初めてお会いした時から気さくに話しかけてくれた。学校経営は子ども達の命と未来を預かる仕事。その重責に加え、台湾と日本の交流の仲立ちの役目をこなす日々だ。

――それでは、言葉がわからない中で日本の生活が始まったんですね。 

 そうです。今となっては笑い話ですが、「包丁をください」とお姑さんに言ったら「こしょう」が出てきたり、洗剤がたくさん並んでいるけれど日本語の表示がわからないので漂白剤で服を洗って色落ちさせてしまったり、たくさんのトラブルがありました(笑)。夫の兄弟やお嫁さんもいる大家族で、一番多い時は11人いました。長男の嫁なので、全ての家事を一人でやる日々で、言葉がわからないので怖くて外出できず、すぐに娘も産まれたので家に籠ってばかりいました。そのストレスから、バセドウ氏病にかかったのです。

――私もバセドウ氏病を持っています。体も気持ちもしんどい病気ですよね。 

 かかったお医者さんで、台湾に戻って手術することを勧められました。里帰りしている間に、友人から「大阪中華学校に勤めないか、紹介の手紙を書くから」と連絡があり、帰国してすぐに面接を受ける段取りになりました。そのころの大阪中華学校には、台湾の師範免許を持った人が少なく、教師不足だったのです。

 面接で「3歳の娘がいるのでどうでしょうか」と伝えたところ、当時の女性校長が「中華学校には幼稚園もあるのだから、一緒に連れて来なさい」とおっしゃってくださって、本当に、奇跡の蜘蛛の糸が降りてきたというか、「空がやっと見えた!」という晴れやかな気持ちでした。だって、家の中でずーっとお姑さんと子どもといて、家事と育児だけの毎日でしたから。「社会とつながる喜び」で、胸がいっぱいでした。27歳の時です。