法律上は任意参加でありながら、全員参加が暗黙の了解になっていることも多いPTA。「子どもが小学校に入学した日からPTA会員になった僕は、なんか変だぞと感じたり、いやいやなかなかPTAっていいとこあるじゃんなどと思ったりしつつ、2007年からはいわゆる本部役員まで経験してしまった。その中で、感じ、調べ、議論してきたことを一冊の本にまとめた」。こう話す『PTA再活用論―悩ましき現実を超えて』(中公新書ラクレ)著者の作家・川端裕人さんが、各地のPTA活動や組織活動をリポートします。

今回の舞台は沖縄県。2014(平成26)年度から“自動入会PTA”をやめて“任意入会”とした、「那覇市立識名(しきな)小学校PTA」。「普通のPTA活動」からどんなふうに改革を実現したのか、識名小学校PTA会長の福里浩明さんを直撃インタビューします。

PTAに関わったきっかけは、担任からの「学級レクをやってほしい」という依頼

識名小学校PTA会長の福里浩明さん
識名小学校PTA会長の福里浩明さん

川端 そもそも福里さんとPTAのなれそめは?

福里さん(以下、敬称略) 平成18年、長男が小学校2年のときでした。クラスの学級委員を妻がやっていまして、PTAの一大イベント「しきなっ子まつり」で、学級委員がかなり疲弊してしまい、学級役員の皆さんが「学級レク(学級レクリエーション)はやりたくない」と。

 長男から「担任の先生が『福里君のお父さん、学級レクをやってくれないかな』って言ってたよ」と聞かされ、担任と連絡を取り、学級役員以外の保護者に声を掛け、学級レクを企画して開催しました。なぜ担任が私に白羽の矢を立てたかは、今でも不明です。誰にでも声を掛けていたのかもしれませんが(笑)。あれがきっかけと言えば、きっかけかな。

 翌年には次男も同じ小学校に入学し、また、この年から「絵本の読み聞かせ」も始めました。

―― 識名小ではそれまでどうやってPTAの委員を決めていたのですか?

福里 2~6年生は5月最初の学級保護者会で役員決めがありました。1年生の保護者は入学式後に体育館に残されて、そこにPTA役員の方が学級ごとに配置され、PTA活動が説明されたあと、「では、これから役員を決めます。決まらないと帰れないですよぉ……」という雰囲気で。PTAの洗礼ですね(笑)。

 平成19年に次男が入学したときに、私も体育館でその洗礼を受けました。たまたま次男の学級には幼稚園で一緒だった保護者や前からの知人がいたので、声を掛けて「一緒にやろうよ」という感じで学級委員になりました。その前年に長男の学級で学級レクを中心になってやったので、「学級委員なんて大したことない」と軽く考えていたと思います。それが正式にPTA委員になった始まりですね。私の最初の役名は学級委員長です。その後、各学級から委員長が集まり、学年委員長を決めるという流れで、私は学年副委員長になりました。

『PTA再活用論―悩ましき現実を超えて』著者の川端裕人さん
『PTA再活用論―悩ましき現実を超えて』著者の川端裕人さん

―― その他の係はどうなっていたのですか?

福里 学級委員とは別に、総務部、広報部、保健体育部、環境美化部、健全育成部、文化家庭教育部の6つの専門部と、ベルマーク委員会、スクールゾーン委員会の2つの委員会がありました。学級委員と同様に学級保護者会で希望者を募ります。

 各部の募集人数は目安として示されてはいましたが、全部埋まらなくても、人数に偏りがあってもあまり気にしていませんでした。あるクラスでは広報部員が0人、環境美化部員5人ということもあります。そういう意味では、「クラスでノルマ何人」といったふうにガチガチに縛られているわけではありませんでした。

―― 息子さんが小学4年生のときに初めてPTA会長に就任されたと伺いました。

福里 次男が1年生だったときの学年副委員長の経験しかない私に会長の話がきました。私に話が来る前に既に会長さんは6人くらいに断られていたらしい(笑)。私は学年委員の活動が楽しかったので即決、快諾しました。一方で、その重要性は分かっていなかったかもしれない。「ただ面白そうだな」という乗りで。依頼した相手に断られ続けている現役の会長さんも、相当困っていたようなので……。少しドキドキわくわくしました(笑)。