写真家として、そしてマルチクリエーターとして活躍する桐島ローランドさんへのインタビュー後編です。エッセイストで作家の母・桐島洋子さんは働いていて不在なのが当たり前、でも一家の大黒柱としての存在感は圧倒的だったと前回の記事で語ってくれました。
 周囲の人々に目をかけてもらいながら、自由に伸び伸びと育ったローランドさんにとって、小学校2年生のときに一家で1年間アメリカで暮らしたことが大きな転機となります。このアメリカでの1年をつづった『マザー・グースと三匹の子豚たち』(1978年)で、桐島洋子さんは独自の子育て論を展開。それが今読んでも痛快で、なおかつ不思議と勇気づけられます。
 今回は、ローランドさんがアメリカ生活を通して学んだこと、そして桐島家流子育て論を中心に伺いました。

1年間の「休暇」中にイースト・ハンプトンにて、一家で迎えたクリスマス
1年間の「休暇」中にイースト・ハンプトンにて、一家で迎えたクリスマス

イースト・ハンプトンの「休暇」は母からの最高のプレゼント

日経DUAL編集部 桐島さんが小学2年生のころ、一家はアメリカに1年間移住することになります。

桐島ローランドさん(以下、敬称略) 母が30代最後の1年は「休暇」にしようと決心して、ニューヨーク郊外のイースト・ハンプトンに家を借りて一家で暮らすことになりました。この経験について、僕は本当に母に感謝してるんです。僕の人生にとってこれ以上は考えられないほど貴重な経験で、母からの最高のプレゼントだったと思うくらい。

―― それほどまで思えるなんて、どういうところがよかったのですか?

桐島 何より、アメリカの自由なところですね。教室に行ったら机が並んでいないどころか、「どこでもいいから好きに座りなさい」って言われる。それに、僕は日本の学校にいたころ、ハーフだという理由で結構いじめられたんですが、アメリカでは大歓迎。みんながすごくフレンドリーに接してくれて、学校が本当に面白くて、英語もすぐに話せるようになりました。

 母は英語に時間とエネルギーをかけ過ぎる日本の教育に疑問を持っていて、英語を自然な生活の一部として早くから子どもに植え付けたい、とも思っていたようです。

 それから、アメリカでは小学2年生で九九ができると天才児扱い。毎日算数は満点で、皆に尊敬の目で見られて非常に気持ちがよかったんです。母は子どもの成績には興味が無かったので、「100点取ったよ!」と言っても「ああ、そう」という感じでしたけれど。