早く仕事に就いてお金を稼ぎたくて仕方なかった

だいぶ成長した桐島姉弟。1983年、オープンしたての東京ディズニーランドにて
だいぶ成長した桐島姉弟。1983年、オープンしたての東京ディズニーランドにて

―― その思い出のイースト・ハンプトンを、昨年再訪したそうですね。

桐島 残念ながら、当時僕らが住んでいた家は取り壊されていたんですが、懐かしく思い出しました。僕も自分の子ども達にあんな生活を体験させてあげたいなとは思いつつ、なかなか難しいですよね。

 1ドル350円だったあの時代に、女性一人で子ども3人を連れて、もちろんインターネットも無いなか異国に移住してしまう。一度心を決めたら、何としてでも実行する。矛盾の無い母のガッツを改めてすごいと思いました。

 話はそれますが……昔から母は矛盾の無い人だと思っていたけど、本当にそうだなと改めて思ったことがあります。それは、抱っこをしないということ。僕ね、母に抱っこされた記憶が無いんですよ。僕だけかと思っていたら、僕の子ども達、つまり孫も抱っこしないんです、一切。本当に矛盾が無いでしょ。

―― なるほど、一貫していますね。そうした洋子さん流子育ては、ローランドさんの仕事観や将来の夢にどんな影響を与えたと思いますか?

桐島 僕はティーンのころから、「早く働き始めなくては」と思っていました。危機感しかなかったんです。「大人になったら、もう母親は助けてはくれないだろうし、絶対に自立しないといけない」と思っていた。だから高校1年生くらいから、お金を稼ぐことしか考えていなくて、早く仕事に就きたくて仕方なかった。高校を卒業してすぐにプロのカメラマンに弟子入りしようと考えていたんです。

―― でも、すぐにはその道に進まず、ニューヨークの大学に進学しましたね。

桐島 そのときだけは、母が珍しく子どもの進路に口を挟んだんです。「ちょっとあなた、うちの家族から大学卒業者がいないと格好悪いから卒業して」って(笑)。それですかさず、それならニューヨーク大学に行きたいし、独り住まいしたいって条件を付けて出したら、すべて受け入れてくれて、学費も全額払ってくれました。

 100点を取ってもまったく関心を示さなかった母が、大学の卒業式ではものすごく喜んでくれて、アメリカまで来てくれました。あのときは親孝行できたと思ったし、大学で学んだことは文字通りプライスレス。「大学を出て」と言ってくれた母に感謝していますね。